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岡本雅享
年の始めの例(ためし)とて 終りなき世のめでたさを 松竹たてて門ごとに 祝う今日こそ楽しけれ。新春を迎えた喜びに溢れるこの「一月一日」は、千家尊福の作中、最も広く親しまれてきた歌といえよう。明治26(1893)年に文部省の依頼で作った小学唱歌で、戦後のTV世代では47年続いた「新春(スター)かくし芸大会」のテーマ曲としてもなじみ深い。
大社のある杵築では、家々で背丈ほどある松や竹を門口に立てて正月を迎えた。この門松は、毎年正月に来訪する年神を招き迎えるための神籬(ひもろぎ)といわれ、年末には家を清めてしめ縄(飾り)を張り、年神に供えるお節料理を作って年始を迎え、共に頂く。年神の依り代となった鏡餅はおとし玉(年神の御霊)として子ども達に分け与え、ご加護を願う。これら一連の正月行事は、祖霊ともいわれる年神との神人共食により、新たな1年を始める活力を授かる、いわば各家庭における新嘗祭だ。その年始を祝い、楽しむ。祖霊と共に蘇りをくり返す故に永生だという、出雲国造の永世観が表れた歌といえよう。
出雲は和歌発祥の地とされる。延喜5(905)年に成立した勅撰和歌集の嚆矢『古今和歌集』の序文にあたる仮名序で、撰者の紀貫之(きのつらゆき)が「ちはやぶる神世には、歌の文字も定まらず……人の世となりて、素戔鳴(すさのお)命よりぞ三十文字あまり一文字は詠みける」とし「八雲立つ出雲八重垣妻籠(ご)めに八重垣作るその八重垣を」が歌の起源と説くからだ。その出雲では江戸後期、神に捧げる歌を詠む神官を中心に、出雲歌壇と呼ばれる文学活動が興隆した。その基盤を築いた千家俊信(としざね)(1764~1831)は、第76代俊秀国造の弟で、晩年の本居宣長などに学んで『訂正出雲国風土記』(1806年)を刊行した学者にして歌人だった。
千家尊福は江戸末期の弘化2(1845)年8月6日、第79代出雲国造・千家尊澄(たかすみ)(1810~78)の嫡男として生まれた。尊福の祖父、第78代千家尊孫(たかひこ)(1794~1873)と父尊澄の両国造はいずれも俊信に学び、歌人、学者として名を馳せた。尊福には幼少より俊信に連なる素養を受け継ぐ環境が備わっていたのである。
安政5(1858)年の『戊午出雲国五十歌撰』に「鶯のかへるみ谷の雪とみて卯の花寒し夏の山里」(卯花)という歌が載っている。この年13歳になる尊福の作だ。大社町の手銭家には安政3年、尊福が10才の時に詠んだという歌の短冊が残る。明治10(1877)年には『明治現存三十六歌撰』(山田謙益編)にも選ばれた。この年32才の若き尊福が、すでに全国一流の歌人と目されていたことが分かる。
出雲大社教の中臣豊一権大教正(1891~1984年)は「二位(尊福)様は歌を幼少の頃から祖父尊孫国造様、父君尊澄国造様から学ばれ非常にうまかった。特に即詠が得意で、願い出た者には職業に応じてすぐお書きになった」と述べている(『幽顕』522号)。
その情景を具体的に伝えるのが、森房吉権大教正(1891~1984年)の回想だ。東京の邸宅で初めて面会した際、尊福公に揮毫を願い出ると「よしよし」と言って筆をとり「年々による人多くなりぬへし瑞枝さしそふ森の下かけ」と即座に流麗な筆跡で歌を書かれ、神業のような歌詠みに驚き伏したという(『幽顕』771号)。尊福が巡教の先々で請われて書いた御神号、額字、和歌などの揮毫は、今も全国各地に残る。