岡本雅享
出雲大社の真菰(まこも)神事と同様の情景が、明治天皇の巡幸でも見られた。明治13(1880)年6月、信州松本で巡幸を見た作家木下尚江は、行列が過ぎ去ると、両側から多くの男女が我先にと駆け出し、突き合い押し合い、着物を汚しながら、泥塗れの砂利を争い始めたと回想している。「天子様がお通りになった砂利を持っていれば、家内安全五穀豊穣」だとの信仰が広くあったからだという(『懺悔』)。
明治14年秋の東北・北海道巡幸に随行した山口正定侍従長は、山形県酒田に行在所を新築し天皇を迎えた富豪の談話を、同年12月19日の日記に書いている。それによれば、天皇が去った後、越後や秋田、最上辺りからも続々と人が訪ね来て、行在所となった座敷をぜひ見たいというので、10日ほど縦覧を許したら、老若男女が湧出るようにやってきて、玉座となった敷物を摩った手で我が身を摩り、これで一生無病だと喜び、女性は柱隠しを摩った手で我が身を摩り、これで安産になるとあり難がったりしたという。
天皇が滞在・宿泊した家では、天子が触れた用具などに神霊がこもると信じて神祭りを始めた例もある。当時の生き神信仰上の天子は「神霊を付着した器」で、その天子を間近に見ることに霊験はあるが、天子が踏んだ砂利や触れた物に移った神霊を持ち帰り、祭ったり御守りにする方が重要だった。当の天皇が死んでも、部屋や砂利に移った神霊は消えないため神祭りは続く。神霊が齎すご利益を求めるこの生き神信仰は、天皇のため命も捧げるという近代国家神道の現人神観とは全く異質な、近世以来の民間信仰だった。
そこでは生き神視された人が自ら筆をとった書に、強い神霊が宿るとみるのが理だ。希代の文人でもあった千家尊福国造は、人々の求めに応じ、各地で多くの書を残している。中でも無数の人々が接してきたのが、道後温泉の湯釜だろう。
明治25(1892)年から道後温泉の養生湯で使われた湯釜には、本体を覆う蓋に「昔より絶えぬ流れもさらにまた沸き出る湯の験(しるし)をぞ思ふ」という尊福国造の和歌が万葉仮名で刻まれ、前後に大国主と少彦名の神像が彫られている。明治24年2月、道後湯之町議会で老朽化した温泉建物の全面改築が決まり、湯釜も取り換える話がでた時、町民の間で神罰が当たり、湯が出なくなるとの心配や反対が広がった。そこで使われてきた湯釜は、奈良時代中期の製造と言われ、最上部の宝珠に正応元(1288)年、一遍上人によるという「南無阿弥陀仏」の6字名号が刻まれ、中層円柱部には享禄4(1531)年に彫られた薬師像があった。今は道後公園内に湯釜薬師として安置される、千年以上も湯を注ぎ続けてきたという湯釜は、庶民の信仰対象でもあった。
そこで伊佐庭如矢(ゆきや)町長は、新たに造る湯釜に尊福国造の題字を願い出た。出雲国造の揮毫による和歌を湯釜の蓋に刻むことで、湯釜を鎮め、町民の不安を取り除こうとしたのだ。こうして尊福国造の和歌と出雲二神の神像を刻んだ新しい湯釜が「湯釜薬師」に比肩する霊験をもつ湯釜として置かれ、客はこぞって養生湯に入ったという。この湯釜は1973年、道後温泉駅前広場「放生園」に移され、今も滾々と湯を流しだし、無料で憩える足湯として人々に親しまれている。