岡本雅享
尊福は大正元(1912)年11月、弟尊紀の一周祭で出雲に帰るのに合わせ、半年前に京都から出雲まで全通した山陰道の鉄道を使い、沿線の兵庫・鳥取県内を巡講した。兵庫では大社教の朝来、日高教会を訪れ、小学校や公会堂で講演。鳥取でも分院や教会がある鳥取、倉吉、米子などに立ち寄って講演した。同月17日、鳥取県会議事堂で行った講演では、この鉄道開通に触れ、自分たちは諸国を廻り、多くの旅客を山陰道に導くから、山陰道の各地が手を繋いで土地の繁栄を計る―それこそが山陰を基盤に国土を経営し、繁栄を築いた出雲大神の御心に適う、と満場の聴衆500名を鼓舞した。
2年は5月上旬に広島県内を約2週間、9月の山口と11月下旬からの岐阜では、それぞれ約1ヶ月の巡講を敢行した。広島では毎席の聴衆が千人を下らず、県下の神道家が千載一遇の機会と待ち望んだ山口県内では、各地で万単位の聴衆が集まり、会場に入りきれない人々が道路にあふれ出たという。2日にわたって講演した玖珂教会所では、早朝から夜の10時頃まで参拝人が引きも切らず、延べ数万人という未曾有の人出となった。
これら尊福の巡講を伝える当時の大社教機関紙『風潮』には「揮毫懇請者多数にして……東伯郡東郷村に至る」(元年11月22日鳥取)、「揮毫を懇請するもの頗る多く、終日執筆」(同月27日杵築)、「御疲労にも拘らず、宿主始め信者の乞いに任せ御揮毫」(2年10月2日神戸)などの記述がみられる。
尊福の司法大臣時代に秘書官を務め、晩年の巡講にも随行した立花増美(贈大教正、1895~1964年)は後年「御巡教の揮毫」や「御巡教余話」で、講演後に御巡教記念として御神号、額字、和歌などの揮毫を願い出る者が多く、尊福は夜遅くまで筆を運んでいたと回想している。特に和歌は堪能で、出願者の職業に応じて様々な歌を詠み、また姓名や干支の詠込み、春夏秋冬や雪月花に寄せた歌を頼まれても、愛用の煙草「あさひ」一本が燻(くすぶ)る間にさっと詠みあげて、居並ぶ人々を驚嘆させたという。
2年6月4日付け立花宛て尊福の書簡にも「出張中の残物は屏風の外一切終了、本日夫々発送せり。480余枚に及べり」とある。5年10月の岐阜・滋賀2県の巡教は2週間だったが、それでも揮毫の依頼が757件あった(5年10月17日付書簡)。留守中には依頼がたまり「(長き旅行より)帰りくれば、ここかしこより歌また額など書きてよと請へるもの、山なしてあり……筆さしおく間もあらず」(5年4月25日付書簡)という有様で、朝から晩まで1日中墨をする日もよくあったという。
2年に14歳で大社教教務本庁に奉職した今西憲大教正(1900~91年)も、直に触れた尊福の姿を現代に伝えた一人だ。家扶の報告を「それから」「うん」と聞きながら揮毫する尊福に、人間業でないと畏れ入ったという。そんな多忙な尊福だが、大社に帰ると毎朝、本殿や鎮守社を拝礼し、毎朝日課の庭掃きをする今西たちにも「元気か」「どうだ」と優しく声をかけられたと振り返る(「初代管長千家尊福公の思い出」『幽顕』771号)。
当時30歳前後と若かった立花も、数十~百枚に及ぶ揮毫の整理に骨が折れたが、尊福は少しも疲れた素振りを見せず、即興で詠み揮毫した歌にも、それとなく人の道を説くのが常だったという。列島各地に残る尊福の書は、その精力的な巡講と、生き神・出雲国造の揮毫を求めた人々の思いを今に伝えている。