岡本雅享
元麿は東京で生まれ育ったが、10歳の時、父尊福に連れられ初めて訪れた出雲を郷里と呼び、この上なく愛したという。昭和20(1945)年春、戦死した長男宏の葬祭も杵築で行い、その墓を先祖累代墓地の一隅に建てた。元麿は「彼(息子)は故郷で暮らした事はなかったが、そこは彼にも気に適る場所に思えた」と記している。この時元麿は、晩年の生活を助けてくれた弟、尊有(大社教第三代管長)宅に約1か月滞在した。長詩「吾が子を故郷に葬って」で、故郷に着くと懇ろに迎えた弟夫婦が共に悲しんでくれ、町や浜を散歩し「我国最古の町で神代を想い、懐古の情を抱いた」ことなどを綴っている。
結婚に反対され家を出てから、庶民と共に暮らした元麿は市民の生活を礼賛し、大正期の民衆派詩人に大きな影響を与えた。稿料が入ると困っている人にみなあげて、いつも貧しかったという。1948年に60歳で亡くなると、杵築の千家家代々の墓所に妻千代子の分骨とともに埋葬された。墓標を揮毫した武者小路実篤は『千家元麿顕彰展記念誌』に寄せた詩「元麿の死」で、世界的詩人として尊敬されるべき元麿は、貧しき者の友であり、自然と美と天才の賛美者であったと綴っている。
詩人となった元麿に対し、出雲歌壇の流れをくむ尊福を受け継ぎ、歌人として名を馳せたのが経麿(みちまろ)や照子だ。明治39(1906)年に尊福の子、元麿の弟として生まれた経麿は、大正13(1924)年春に国学院大学へ入学し折口信夫(釈迢空(しゃくちょうくう))に師事し、折口が指導する予科学生の短歌会「鳥船社」で活躍した。昭和3(1928)年夏、出雲風土記をテーマとする卒業論文「宮廷伝承の根底となった出雲人の叙事詩・説話」を書くため出雲へ帰省中、22歳の若さで病没。同年10月、鳥船社同人が出した経麿の遺構集『青ふし垣』の巻頭で、折口は「ひとがどの人間として世間に送り出す豊かな予期を目の前に控えていた」経麿の急死を悼んでいる。原青波『出雲歌道史』も、経麿の歌には鋭い歌心が閃いており、大成を見ず病没したのは惜しいと記す。北原白秋や斎藤茂吉らが審査員となった短歌選集『新万葉集』に「我が国造家の祖を憶ふ」として詠んだ「皇国(すめくに)の遠(とほ)荒国のそのかみを、わが大国主はをさめ給へり」など経麿の歌が、16首採用されている。
明治29(1896)年5月生れの照子は尊福の姪(弟尊紀の次女・第82代国造尊統の妹)で、杵築の小学校を出て学習院女子部へ進学した。卒業後帰郷し、歌誌『潮音(ちょうおん)』を主宰する太田水穂(おおたみずほ)に師事。昭和5(1930)年、出雲詩社から百余首の小歌集『朱櫻〔ははか〕』を上梓して注目されたが、元来病弱で20歳頃に大病を患ってから闘病生活が続き、昭和7(1932)年1月3日に35歳で病死した。没後1年目に読売新聞社から再発行された『朱櫻』には、照子全生涯の短歌、随筆、日記などが収録されている。照子と交流のあった与謝野晶子は、同書の序歌で「出雲なる神のすゑにて歌を詠むみやびし君の見がたくなりぬ」と詠んでいる。尊福の知遇を得た縁でと、同書に序文を寄せた佐々木信綱も、照子の才は「歌の国出雲の名門」にふさわしく「其の名長く世に朽ちざるべし」と書いている。原青波は『出雲歌道史』で、照子の早世は「出雲歌壇にとって大きな損失」で「照子に代わる女性はない」と嘆いた。
病魔に苦しみながらも、照子は心健やかに生きようとした。「おほらかにつくれる山よ海よ野よ、うまし出雲の国人われも」と、出雲の自然と共にある喜びを詠んだ歌には、力強ささえ感じる。宗教者ではなく、病床から離れられなかった照子だが、亡くなる1月前の日記に「日本的な大きな仕事に携わりたい。日本のために、父母のために、兄弟姉妹のために、自分自身のために」と書き残している。偉大な叔父、尊福の背を、きっと追っていたのであろう。