岡本雅享
北海道から沖縄まで、今も各地にある出雲大社教の分院や教会―その中には尊福が大社教の創設を図った明治初期に遡るものがある。昨(2018年)秋その一つ、美作分院がある岡山県津山市を訪れた。同市観光協会発行の「津山城下めぐり旅」に「津山は大和と出雲の交わる……歴史の町」とある。国指定登録文化財の老舗旅館「あけぼの」に泊まると、小谷善守『出雲街道』全10巻が置いてあった。津山朝日新聞紙に1972年から96年まで計905回掲載された連載を書籍化したものだ。
今も津山の日常に息づく出雲街道。古来、様々な人やモノ、文化や信仰が往来し、近世は参勤交代の幹線としても整備された。美作から伯耆へ抜ける難所、四十曲峠に近い美甘村の村誌に、雲州藩主・藩士の頻繁な往来が記されている。宝暦9(1759)年2月には京都御園大納言息女が千家国造への輿入れで通行。尊福(国丸)に嫁いだ広橋大納言喜久姫も慶応2(1866)年2月に京から出雲へ、明治2(1869)年2月には尊福自身が父尊澄と共に上京する際、出雲街道を通っている。
津山は京都と出雲を結ぶこの出雲街道の、ちょうど中間点に位置する。その津山松平藩町奉行日記には「出雲大社中官西村神太夫と申す御師、上下四人例年の通り参り候」(文化2=1805年9月17日)などと、出雲御師の来訪が度々出てくる。『出雲大社美作分院百年記念誌』が、美作では古くから出雲大神に対する信仰が厚く、家々でも玉串を祭ってきたと記す所以だ。
尊福は明治7年8月、大教正兼神道西部管長として上京する途中、津山の旅館で美作国中の神職を集め、神道の興隆を説いた。ここで尊福は、美作分院の創設者となる美甘政和〔みかもまさとも〕と出会う。政和は津山藩主に学識を買われ、明治元年に藩士となり、社寺掛をへて4年に中山神社の神官となっていた。末席に列するも演者3人の1人に選ばれ、進み出て尊福の講演に対する所見を述べる。尊福は政和の才能を見抜き、政和は尊福に深く共鳴したという。前年、出雲大社敬神講を端緒に出雲大社教会を創立した尊福は29歳、政和は39歳の夏だった。
明治9年に改めて尊福に会い、美作で出雲大社教会を広めると約して帰った政和は、同志の秋山結城・鎮磨らと共に翌10年8月、美作国神道事務局内に出雲大社教会所を仮設。12年春までに美作国内の信徒を3万人に増やした。同年5月、出雲大社に参詣した秋山鎮磨の要請を受けた尊福が、美作を訪れて6月下旬から7月半ばまで巡教すると、美作の出雲信仰は一段と高まり、出雲大社教会の一等教会所を津山に設けることになる。
大社教美作分院が誕生したのは15年12月15日。祭神論争、神官教導職分離令をへて、尊福が大社教を特立した翌月だった。初代管長として美作を再訪した尊福が、自ら奉持してきた神霊の鎮祭を執り行う。神輿を奉護する尊福の前後に政和ら神職、教導職、信徒一同が従った行列は数百メートルに及び、掃き清め、盛り砂された出雲街道を進んだ。沿道では各戸が幔幕を張り、提灯を掲げ、人々が立ち並んで拍手をうつ。寒風吹きすさぶ中、数千人の参拝者が集まったこの日の喜びを、尊福は「諸人の袖ふきかへす風よりも身にしむものは誠なりけり」と詠んだ。その掛け軸と尊福が奉持した幣帛が、今も美作分院に残る。
分院長となった政和は30年9月、中山神社の宮司に任命され、副長の鎮磨が教職である分院長に就いた。政和は分院総理として後見し、終生大社教に尽くす。大正7年、1月に薨去した尊福を追うかのごとく、年末に帰幽した政和に、大社教は一等教勲を贈った。
今は鎮磨の玄孫で1971年春に就任した秋山知之さんが第5代分院長を務めている。分院は1988年夏に道路拡張のため移転した際、本殿を二階建てにした。敷地もしだいに広がり、本年2月現在で駐車場を含め1185坪を数え、津山市内で存在感を増している。