岡本雅享
幕末に生まれ、青年期に近代日本宗教史の最前線に躍り出た千家尊福。その素養や遺志は、親族や大社教関係者に受け継がれていった。文人尊福を受け継いだ親族の中で、最も知名度が高いのは、息子で詩人の元麿(もとまろ)だろう。武者小路実篤ら白樺派の作家と親しく交わった人道主義の詩人として知られる。
元麿は明治21(1888)年6月に東京で生まれた。尊福が元老院議官となった翌(8)日で、かつ初めての男子だったので元麿と名付けられたという。元麿の母、小川豊(梅崖)は成島柳北(りゅうぼく)の『柳橋(りゅうきょう)新誌』にも出てくる両国の料亭、青柳の長女。著名な日本画家、滝和亭(かてい)に学び、18歳にして美術協会で1等を受賞した才媛だった。祭神論争をへて、政界との交わりを深めていた尊福は、政界人が多く出入りする青柳で豊と出会った。希代の歌人と閨秀画家は互いに惹かれ合い、尊福は恋文で豊を「貴嬢」と呼んで尊敬し、和歌に託して熱情を打ち明けたという。
出雲には12年に尊福と結婚した伏原(ふしはら)宣諭の次女、俊子(貴族院子爵議員、伏原宣足の妹)と2人の娘がいた。俊子の上京で初めてそれを知った豊は驚いて里へ帰るが、尊福と元麿への愛情から、尊福の詫びを受け入れ戻ったという。元麿には二人の母と、異母姉妹を含む12人の兄弟姉妹がいたと、元麿の年譜にはある。
元麿が10歳になった31年、尊福は東京府知事に就任し、それから10年間、芝の府知事官邸に住んだ。元麿は長編叙事詩『昔の家』で、ここで暮らした少年時代の思い出を綴っている。そこには尊福が東京で暮らした家の様子が、少年時代の元麿の視線で描かれ、父としての尊福の姿が随所に現れる。
『昔の家』は『千家元麿全集』下巻の3分の1を占める大作で、長詩24編と続編8編からなる。「森の家」や「舞踏会」では、東京府に払い下げられ、府知事の官邸となった閑院宮(かんいんのみや)旧宅の様子が詩情豊かに描かれる。庭園の中に煉瓦の洋館と平屋造の日本館があり、そこで尊福は家族と共に暮らした。来客用の洋館では月に一度、姉たちの交友だった政治家や資産家の子女が集う舞踏会が開かれ、尊福は妻を伴い、挨拶に出たりしたという。
「家庭の夜」では、父・尊福から会計を任された姉や、書生部屋で学習する弟たちの日常が窺える。豊の生い立ちや尊福との馴れ初めなどを描いた「母と従弟」は168行にわたる長詩で、尊福がフランス語を学んでいたり、豊に宛てた尊福の恋文が残っていたことなど、尊福の意外な一面もうかがわせる。
37年、16歳の元麿は友達と南洋の無人島へ行く画を立て、家出をする。途中で追手に捕まり、連れ戻された元麿らを、新聞は「冒険少年」と書き立てた。尊福は帰京した元麿に会わず、まず叔父の家に預ける。叔父の仲介で謝りに来た元麿を、尊福は、その軽率な行いが、母や祖母をどれだけ心配させたか、と叱りつけ、元麿は大声で泣き出したという。尊福は出雲出身の高等学校教授がいる仙台へ、元麿を送るのであった。思春期を迎えた血気盛んな息子に向き合う、一父親としての尊福の姿が、そこには描かれている。
元麿は大正2年、千家邸に女中で来ていた武州の彫刻師の娘、赤沢千代子を愛し、結婚した。この結婚が双方の父の反対にあったため、元麿は家を出る。元麿が見る父尊福は「謹厳で近寄り難かった」という。愛した女性との結婚に反対した父、尊福には反発もあっただろう。だが元麿は尊福を慕っていた。大正7年5月に出した初の詩集『自分は見た』を、元麿は同年1月に薨去した父に捧げている。