岡本雅享
佐渡は養老5(721)年、三郡に分かれるまで雑太(さわた)郡の1国1郡だった。その雑太郡八多(はた)(波多)郷の中心地・畑本郷に鎮座し、江戸後期の『佐渡志』に「天正の頃まで比びなき大社」と書かれた畑野熊野神社は、「出雲国八束郡熊野村なる熊野大神の分霊」(畑野村志)で、霊亀2(716)年の創建と伝わる。
新潟県内には今、この出雲の熊野大神を主祭神とする熊野神社が24社ある。天平5(733)年の出雲国風土記が国内399の神社のうち、大社(おおやしろ)と記すのは杵築(きづき)大社(現出雲大社)と熊野大社の2社だけで、また中世まで出雲国一宮と言えば、熊野大社を指していた。出雲東部、意宇(おう)の王だった出雲国造(こくそう)の祖先がもともと祀っていたのが熊野大神で、出雲全土を統治し、全域の神として祀り始めたのが杵築大社の「天の下造らしし大神」だといわれる。
新潟市江南区城所(じょうしょ)の熊野神社も、古代の鎮守といわれ、片桐宮司が代々本務社として祭る古社だ。大正時代の『中蒲原(かんばら)郡誌』に、その祭神は「奇気野(くしみけぬ)命、明治初年の書上には祭神熊野加武呂(かむろ)神と見ゆ」とある。熊野加武呂は出雲国風土記の出雲神戸(かんべ)に現れる熊野大社(現松江市八雲町熊野)の祭神名だ。
この熊野大神は、10世紀前半の延喜式(えんぎしき)所収の出雲国造神賀詞(かんよごと)では櫛御気野(くしみけぬ)命と呼ばれている。カムロは「聖なる祖」を、クシミケヌは「神秘な御食(みけ)主」を意味するというから、熊野大神は本来、出雲国造の祖霊や霊威に関わる食物を司る神なのであろう。
紀伊熊野三山信仰は平安末期に成立し、中世各地に広がるので、それより古い時代に越で創建された熊野神社は、出雲系とみられる。越中国婦負(ねい)郡に式内熊野神社があるが、『熊野郷土史』は、出雲の熊野神を信仰した人々が、対馬海流に乗って日本海沿岸に発展し、各地に熊野神社を祭ったものだという。
佐渡の真野湾には、かつて潟湖があり、その周辺に古代の遺跡が集まる。海流の道で能登方面から行き着く真野湾の方が主な入航地だったのだ。畑野の熊野神社は1956年、現在地に移るまで3㎞ほど北西の下畑にあった。もともと、真野湾から潟湖に入って辿りつく岸辺近くに鎮座していたとみられる。
越後平野にも古来、多くの潟があった。近世の絵図でも、今より大きい福島潟、鳥屋野(とやの)潟や、今はなき岩船潟、紫雲寺潟など大小様々な潟が描かれている。城所熊野神社の鎮座地の字名は荒木浦で、この地に外海と結ぶ潟を介した水上交通があったことをうかがわせる。
見附市市野坪町の出雲神社は明治40年に櫛御気野命を祭る熊野神社を合祀した。中世末期、この出雲神社を建立した初代喜兵衛から19代目という板垣博義さん(80)は、当地にもともと住んでいた人たちが熊野神社を祭っていたと、父から伝え聞いていた。より古い時代から出雲の熊野大神を祭る人々がその地に住んでいたことになる。越佐で出雲の熊野大神を祭る社は、かつてはもっと多かったのだろう。