岡本雅享
昨年11月、上越市在住の日本画家、川崎日香浬(ひかり)さんが出雲大社に横幅5.4mの大作「神在(かみあり)月―高志(こし)から出雲へ」を奉納した。諸国の神々が出雲に集う旧暦10月(出雲以外は神無月)、出雲大神と結ばれた越(こし)の奴奈川(ぬなかわ)姫が神幸する絵だ。
この頚城郡奴奈川郷の女神は、出雲国風土記でオキツクシイ(海の沖の神)、ヘツクシイ(海辺の神)の子として登場し、出雲大神(天の下所造らしし大神)と結ばれ、御穂須須美(みほすすみ)命を生む。この御子神が鎮座する出雲国美保郷の美保の埼(美保関(みほのせき))は、国引き神話で、八束水オミヅヌ命が高志の都都(つつ)の岬(能登の珠洲(すず)岬)から「国の余り」を引き寄せたという地でもある。その珠洲岬の珠洲神社奥宮もミホススミを祭る。島根半島と能登半島、それぞれの先端に鎮まるミホススミは、出雲と越の海路による繋がり、交流を象徴する神として生まれたのだろう。
西頸城最大の河川、沼川(ぬなかわ)=姫川の水神、ヌ(玉)ナ(の)カワ(川)ヒメは、その上流に産地がある翡翠の女神とも言われる。西日本の弥生・古墳時代の遺跡から出土するヒスイ製勾玉の多くは、糸魚川産とみられる一方、形状が北陸で作られた勾玉と違う。糸魚川市文化振興課の木島勉さんは、出雲を核とした山陰が、その製造や流通を担った可能性を指摘する。出雲大社摂社の境内から出土した最上質のヒスイ製勾玉は、その象徴といえよう。出雲(大神)とヌナカワ(ヒメ)はヒスイと玉作で、より強く結ばれたようだ
早川河口に近い糸魚川市田伏に、今の榊守夫宮司で61代目を数える奴奈川神社がある。相殿に出雲大神、境内社でオキツクシイ命、ヘツクシイ命も祀る同社には、高志国へ来た出雲大神が、ヌナカワヒメと共に国造りを行ったとの由緒が伝わる。上流の早川谷には、大穴持神(出雲大神)が征した八口山(火打山)の大蛇が鎮まるという八龍淵の伝説がある。隣の能生谷では大己貴命が御子の御穂須々美命と、鉾ケ岳の峰に広鉾を捧げ、夜星(えぼし)山に棲む悪神を討ったと伝わる。
こうして妻子と共に頚城の国づくりをした出雲大神は、沿岸を海路で移動している。能生川河口の布引(ののびき)にある舟の形をした窪地・舟窪(ふなくお)は、大国主らが沖合へ往来した舟を置いた所だという。筒石の海上に浮ぶ千束島は、大国主が立ち寄った島で、その中央にある穴は大国主が掘った井戸の跡だという。
姫川を挟む西頚城の沿岸地域には、こうした出雲大神の伝説が随所に残る。親不知駅近くの海上に浮ぶ、二つに割れたような大岩は、大国主(出雲大神)が歌の綾姫を救うべく、鬼と岩投げの力比べをしたという「投げ岩」だ。
珍しい出雲神の伝承もある。青海川上流、比利谷(びりだに)(蛭谷)の屋奈加(やなか)姫石の伝説は、越後へ派遣された恋仲の男神を慕い、出雲をぬけ出し越後国へ来た出雲の女神の話だ。糸魚川市の前波南遺跡から「出雲真山(まやま)」と書かれた木簡が出土している。古代の越後に実在した、彼ら出雲人がヤナカヒメ伝説の背景にいたのかもしれない。