今(2016)年5月、「佐香(さか)の歴史と文化を継承する会」の金折徹也会長に、雨乞いの神として知られる多伎津比古(たきつひこ)命を祭る磐座(いわくら)の立石(たていわ)神社(出雲市坂浦町)を案内いただいた。8月には同神を祭る多久(たく)神社(同市多久町)を訪れた。山陰中央新報連載「出雲を原郷とする人たち」の伊予讃岐国編で、愛媛県今治市(いまばり)古谷(こや)の多伎(たき)神社を紹介した時から、訪ねたいと思っていた2社だ。
多伎神社は伊予国越智(おち)郡の式内社で、現在、須佐之男(すさのお)命、多伎都比古命、多伎都比売(たきつひめ)命の三神を祭る。高縄半島西岸に流れ出る頓田川の支流・多伎川上流の谷合いに鎮座する同社は、神社奥の院の磐座信仰が起源とされる。『日本三代実録』が貞観年間に重ねて神階が授けられたと記す伊予国瀧神とされ、近世には今治藩の雨乞祈願所となり、幕末に至るまで大規模な藩雨乞が行われていた。であれば、延喜式神名帳が「名神大1座」と記す多伎神社の本来の祭神は、タキツヒコ1神だったろう。
出雲国風土記は楯縫(たてぬい)郡の神名樋(かんなび)山の条で、頂上付近にタキツヒコの依り代の石神があり、「旱天に当りて雨を乞ふ時は、必ず雫らしめ給ふ」と記している。加藤義成『出雲国風土記参究』等によれば、多伎都比古の多伎は滝に通じて、水がたぎり音をたてて流れる滝や早瀬の神。同神を祀る立石神社も10mを超える巨石を神体とし、明治初期まで雨乞いの祈祷が行われていた。
この磐座信仰を起源とする川や瀧の水神タキツヒコは、古事記や日本書紀には出てこない出雲国風土記神話の神で、出雲でも旧楯縫郡の3社が祭るのみという、固有性の高い神だ。その神が遠く離れた四国に鎮座する。しかも出雲と伊予の間に、この神を祭る社はない。出雲と伊予のタキツヒコ信仰は、直接結びついたと考えられよう。
四国における山陰系土器の出土は瀬戸内海に面した伊予・讃岐に偏り、特に高縄半島西岸の松山・北条平野あたりと東岸の今治市域、三豊から高松の香川県西部沿岸に集まる。今治市域では瀬戸内の海上交通の要所、島喚部の多々羅製塩遺跡が最も多く、馬島ハゼヶ浦遺跡・上徳上胡遺跡・新谷森ノ前遺跡では、より特有性の高い鼓(つづみ)形器台も出土している。古より山陰の人やモノ、そして信仰が、海の道を介して四国へ渡っていたのだ。
今治は出雲系神社の分布でも特徴的な地だ。愛媛県内で大己貴(大名持・大穴牟遅)神社と称する28社のすべてが現今治市・旧越智郡内にある。明治以降の神社廃合政策の結果、今も自社の境内があるのは松木の大己貴神社1社だけだが、明治10年の越智郡神社明細帳では全郡223社中41社と2割を占め、杵築神社(8社)や出雲神社などの名でオオナムチ(大国主・八千矛)を主祭神とする神社も合わせれば計63社、全郡の3割を占める。
さらにスサノオを主祭神とする28社を加えれば、両神だけで4割を超える。これは越智郡式内社の半分が出雲神を祀るのと対応する。中世や近世の創建も少なくない。来島に鎮座する八千矛神社は文治8(1186)年、越智氏の系統とされる河野出雲守通助が祀ったものという。今も境内を維持している杵築神社2社(いずれも今治の来島海峡に面した沿岸部に鎮座)は、江戸中期の建立と伝わる。時代を重ねて、出雲信仰が伝わったのだ。
多伎神社の周りでは社叢内の多伎宮古墳群が知られていたが、2011年夏に同社の後背部の丘陵の尾根で愛媛県内では稀な古墳時代中期の方墳、古谷犬山谷古墳が発見された。2012年9月には、同社近くの古谷尾ノ端遺跡から弥生時代中期中葉の中細形銅剣が出土して話題となった。出雲を連想させる方墳、そして荒神谷と同じ中細形銅剣―多伎神社の沼﨑守文宮司は、神社の歴史を見直さねばならない発見だという。タキツヒコを祭る両地の交流が深まれば、それらの謎も解けてくるかもしれない。