ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は「杵築―日本最古の神社」(1890年9月)で、こう記している。
「神道の計り知れない悠久の歴史を考えれば、『古事記』などは、現代の言葉からはほど遠い古語で書かれているとはいえ、ごく最近の出来事の記録集にしかすぎないであろう。……神道を解明するのが難しいのは、つまるところ、西洋における東洋研究者が、その拠り所を文献にのみ頼るからである。……ところが、神道の本髄は、書物の中にあるのでもなければ、儀式や戒律の中にあるのでもない。……風変わりな迷信や、素朴な神話や、奇怪な呪術のずっと奥に、民族の魂ともいえる強力な精神がこんこんと脈打っている。日本人の本能も活力も直感も、それと共にある」(『新編・日本の面影』角川書店)。
国家神道の対極に置かれ、消滅・弾圧の対象とされた土俗的な民間信仰の中にこそ、神道の本髄があるとの指摘は、神社を主体と考える神道論とは異質な民族宗教観を提示する。
ハーンは出雲に住み、のち松江出身の妻・小泉節子(1868~1932年)が語る民話を聞きながら『怪談』を書いた。原書の題名がKaidanでなく出雲語訛りのKwaidanであることにも、それが滲み出ている。節子(セツ)は、杵築大社で代々上官を務める社家・高浜家の養女であった養母・稲垣トミから、出雲の神々や様々な霊・魂、祈祷や神楽囃、狐や狸や貂が化けたりする話を聞いていたという(長谷川洋二『小泉八雲の妻』松江今井書店)。
その小泉節子と同時代に生きた諸喰(松江市美保関町)出身の影山ふさ(1934年頃没)から見聞きした「風変わりな迷信や、素朴な神話や、奇怪な呪術」がベースとなって、妖怪漫画を書き始めたのが、境港出身の水木しげる氏である。「私がいま描いているようなお化けとかいうものは、みな、のんのんばあから教わったものです」と水木氏はいう(『水木しげる記念館公式ガイドブック』朝日新聞社)。
影山ふさの夫は、拝んで病気をなおす「拝み手」で、境港では神仏に仕えたりする人を「のんのんさん」と呼ぶことから、水木氏は彼女を「のんのんばあ」と呼んでいた。「のんのさま」「のの」「ののさま」「のんのん」「ののさん」などは、「方言」の中に残る、神仏や日月など尊ぶべきものをさす幼児語とされるが、「のんのつかさ=のりのつかさ=式部省」やアイヌ語の「のんの」とも同源の言葉だろう。「拝み手」(拝み師)は、沖縄でユタ、東北でイタコと呼ばれているのと同様の(民間)巫者である。影山ふさの夫は、一畑薬師(894年創建)から持ち帰る「お茶湯」を祭壇に置いていたというから、薬師如来を本尊とする拝み手だったと思われる。
私は1980年代半ば、高校生の頃、出雲渡橋の拝み師さんを訪ねたことがあるが、後年、この拝み師さんという存在を東京や関西、福岡などで言っても誰も分からなかった。拝み師は出雲固有のものかと思っていると、初めて沖縄に行き友人と話した時「ユタのことか」とすぐ反応され、驚いた(そして初めて聞くユタという存在に興味を抱いた)。後日巡りあった藤田庄一『拝み屋さん―霊能祈祷師の世界』(弘文堂)が紹介する事例なども見ると、拝み師的存在は健在な所とそうでない所があるらしい。
水木氏は、影山ふさが家に泊まるときには、話が聞きたくて隣に寝たという。すると、ふさは、天井のシミを見つければ“天井なめ”という妖怪の話をしてくれる。夜、家がミシミシと鳴ると、怖い顔をして、それは“家鳴り”だという。海が荒れてゴーゴーという風と波の音が聞こえる日には“海坊主”の語をしてくれる。ふさは年中行事を大事に思っていて、その由来や約束事をよく知っていたともいう。毎年お盆が近づくと、興奮して、トンボをとっちゃいけない(お盆には仏様がトンボの背中に乗ってくるから)とか、お盆の3日間には海で泳いではいけない(先祖の霊がこの世に来ていて、その霊に引っ張られるので)とか、教えてくれたという。ふさが、お盆の最後の「送り火」で、木を燃やし「また来年もござっしゃれやーっ」と大声で叫ぶと、空の上に登っていく霊魂が見えるような気がしたと、水木氏は述懐している(『のんのんばあとオレ』筑摩書房)。
こうして、水木氏は影山ふさから、死後の世界とか、神様・仏様とか、土俗神とか、いろんなことを教わったのである。諸喰出身で一畑薬師の拝み手を夫にもつふさが、水木氏に伝えた話は、島根半島を中心に伝わってきた民間信仰・伝承であろう。その意味で、小泉八雲と水木しげるの世界は、源泉で通じているともいえる。池上良正『民俗宗教と救い―沖縄・津軽の民間巫者』(淡交社)は、民間巫者の「神がかり」や「託宣」は、日本の宗教史の底流をつらぬく特徴であると述べているが、言い換えれば、そこに民族宗教・神道の本髄があるということだ。ハーンは、政府が民間信仰の凋落を目指す明治の日本で、根強く生き続ける民間信仰の力に、日本人の魂の源泉を見出したのだろう。民間伝承の迷信や超自然的物語にこだわったハーンは、1893年4月、チェンバレンに宛てた手紙で「宗教は迷信を精巧にしたものにすぎない、そして両者の根底には真理がある」とも記している(小泉凡「ラフカディオ・ハーンにおける口承文化の受容と継承」『ケルト―口承文化の水脈』中央大学出版部)。
もう一つ、小泉八雲と水木しげるの世界には、通じるものがある。それは自然信仰的神道の観念である。「闇が多かったり、自然を身近に感じていると、人は敏感になる。みえないものを感じる力が研ぎ澄まされる」という水木氏は、「妖怪は、自然が残る所でないと生き続けられない」ともいう。「自然の森や林の中をゆっくり歩くと、日の光とか、雨のしずくの形とか、そこに光が当たってキラキラ輝くこととかに気がつくんです。なんというきれいな、のどかな世界だろうと思う。……そういうゆとりがあると、目には見えにくいけれどあるもの、たとえば妖怪や神や悪魔など不可知な世界があることを信じられるんです。妖怪というと、今でも頭から毛嫌いする人もいるけれど、人類が生まれてから人間と妖怪は共存しているんです。妖怪やお化けと共に、生きているほうが、人間にとって自然なんです。……人間は植物や虫や妖怪なんかと一緒に暮らして、はじめて精神のバランスが保てると思うんです」(『こんなに楽しい妖怪の町』実業之日本社)。
出雲の古志で生まれた私は、高校生の頃まで、草がざわつく時、それが風のせいか、生き物がいるのか、そうした見えないものの気配を感じ分けられた。夜目もきいた。ところが大学進学で首都圏に移り住み、雑踏や満員電車の中で気配をシャットアウトしなければ気疲れしてしまう環境の中で暮らすうち、勘がすっかり鈍ってしまった。地上のネオンが逆に夜空を照らし出す都会の夜に慣れたせいか、暗闇の中で見えていたものも、見えなくなった。子どもの頃は、人気のない山の中へ入っても、暗闇に身をおいても、怖いと感じたことはなかったが、「上京」して数年後、出雲へ帰省して山へ入って、気配を感じられなくなっている自分に気づいた時、はじめて「怖い」と感じた。今は出雲へ帰ると、野生の鹿が蹄の音をたてて駆け巡る不老山(出雲北山)の奥まで入ったり、かつて北ツ海と呼ばれた島根半島の海岸や、入り海と呼ばれた宍道湖、出雲大川と呼ばれた斐伊川などへ身を置いて、街暮らしで低下した集中力を回復させている。子どもの頃のレベルには回復しようがないが、周囲に人の気配も人工の音もなく、神経を研ぎ澄ませても疲れない場所がある出雲の自然は、心身の緊張を緩め、集中力を高め、体調さえも整えてくれる。まさに「自然の治癒力」である。数年前、体調を崩し、病院通いをしても治らなかった時、この出雲の自然が治してくれたことがある。人間の力を超える存在が神であるならば、人間の英知を結集した現代医学も及ばない力をもつ自然は、まさに神であろう。その意味で、ハーンが霊的な美しさがあると讃えた出雲は、まさに神が未だに健在な場所だといえる。
神が健在である所―自然が人に支配されず、人を抱きこむ気高く大きな存在であり、また時に人の力ではどうすることもできない試練(災い)を与える―では、妖怪も生き延びられる。両者は同居している。小泉八雲の神や怪談、水木しげるの妖怪や神仏の話を見比べてみると、そういう意味で、神と妖怪は紙一重なのだと、思えてくる。出雲には、『出雲国風土記』が、天の下造らしし大神やオミヅヌ神ら出雲の神々が創ったと記す自然環境が、今も少なからず残っている。神とマズムン(お化け)が健在な宮古諸島を巡った時も、その琉球列島のウタキに似たヘイアウと呼ばれる聖地があり、メネフネ(妖怪)を見たという人がたくさんいるオアフ島(ハワイ)を巡った時にも、出雲と同様の、「霊的な美しさ」をもつ類まれな自然が残っていた。
小泉八雲は「出雲再訪」で、1896年夏、出雲の「古い美保関の港の近い小さな入り江を見渡せる」加鼻の東屋で「無上の快楽」にひたりながら想ったことを、こう記している。「こうした東屋は、日本人がいかに自然の美を愛しているか、如実に示すものだけれども、それ以上にずっと大切なことを私たちに教えてくれる。それは旧日本が知りぬいていた一つの智恵で、幸福の要諦は知足、すなわち足るを知るにあり、ということだ。日々の暮らしにこと欠かず、自然が万人に与えてくれる素朴な喜びに満ち足りて、私欲をすて家庭知人と仲良くやってゆければ、それで十分、もう望むことはないという心構えだ。日本では古の牧歌的な暮らしの一部が明治の変革の陰に今なお残されている。そういう古い暮らしぶりをほんの束の間でも味わった者には、西洋で叩き込まれる考え方―「生存競争」だとか「闘争は義務」だとか、富や地位を得るためには、なりふりかまわず弱い仲間を踏みつけに「せねばならぬ」とかいう教えは、何か恐ろしく野蛮な社会の掟のように思えてくる。日本人は、遥か昔から、我を去り幸福になるのはいともたやすい―健康でいて、食うに困らぬだけは働いて、人並みの道徳的・美的感覚に恵まれ、それを自然に育めれば、もう十分なのだと心得ていた。それ以外の人生の糧はといえば、喜びと美と愛と平安だろうが、これは自然だけが私たちに与えてくれるものなのだ(『明治日本の面影』講談社)。
ハーンが19世紀末に書いたこの文章は、競争が煽られ、「勝ち組・負け組」などという言葉が流行る21世紀初頭の日本に生きる私たちにとって、驚くほど新鮮である。と同時に、ハーンが、来日して数年にして、神道の源流・本質を、ものの見事に見抜いていることに、感服せざるを得ない。外国人は、たとえ日本国籍をとっても、神道の信者になれないという人もいるが、それは原武史氏のいう「出雲の抹殺」(明治10年代前半の祭神論争における千家尊福国造と出雲派の敗北、『〈出雲〉という思想』講談社)に始まる新興(国家)神道の呪縛の中にまだある神道のことだろう。ここでハーンが述べている観念から、彼が紛れもなく、神道源流の信者であったことが分かる。そして、ギリシャ人の母とアイルランド人の父、コナハト(もと王国で現在アイルランド共和国の一地方、ゲール語を日常語とするケルト文化が濃厚な地域)出身でケルトの妖怪譚や怪談を語ってくれた乳母をもつハーンが「自然や人生を楽しく謳歌するという点でいえば、日本人の魂は、不思議と古代ギリシャ人の精神によく似ている」(杵築―日本最古の神社)というように、自然神道の本質は大らかなものであり、決して日本人固有のものでもない。それ故に自然神道は、自然を尊び、人間のおごりを戒める観念・思想を体系化していければ、現代のエコロジー運動とも通ずる、世界的な信仰(哲学)として発展し得る本質を持っている。投げ捨てられたゴミがあちこち浮かぶ川や池からは、水神も河童もいなくなってしまう。ハーンに怪談を語って聞かせた小泉節子や、水木しげるに妖怪の話を語って聞かせた「影山ふさ」を育んだ、神と妖怪が生き延びている出雲から見ると、日本人の民族宗教・神道も、伊勢(内宮)を本宗とする神社神道とは違った景色で見えてくる。