昨秋『池間島の地名・池間島の聖地』を刊行した伊良波盛男さんが、今度はエッセー集『わが池間島』を出版した。池間郷土学研究所としては、『池間民族屋号集』を嚆矢(こうし)として3冊目の単行本となる。本書に収められた随筆のほとんどは、ここ数年間、地元紙に掲載されてきたもので、約70にのぼる。手にとってパラパラめくるだけでも、著者の情熱とエネルギーを感じる。
本書はこれらの随筆を「池間島の神観念」「池間島の民俗」「池間島の言語・文化」等の六章にまとめている。後書きで「小島の民俗文化の断片」と謙遜しているが、本文の節々から、池間郷土学研究所を立ち上げた著者の自負と意気込みが伝わってくる。
著者は前書きで「おのれの生まれ育った島・村の井戸が掘れなくて、いずくの井戸が掘れるだろう」と問いかける。数年前、あるテレビ番組で「愛国心教育」の実践例として、富士山を用いた教材が紹介された時、私にはその発想が、変というより哀れに思われた。私の心の中にある山は、子どもの頃から見て育った出雲の不老山や神名火山であって、富士山ではない。だが今の日本では、多くの人々の心の中に「自分の山」がないようだ。それでは、郷土の井戸は掘れまい。
著者の心の中には、郷土・池間の海や丘や森が、あふれんばかりに根付いている。だから、彼の池間郷土学は強い。伊良波さんが掘っている池間の井戸は、一見細い穴かもしれない。だがその先には、大きな世界が広がっている。外に長らく身を置いた人だからこそ、池間と外とのつながりも、よく見えるのだろう。
著者は本書で「幽霊やマズムヌとの共存共栄こそが望ましい自然環境」だとも述べている。霊的な美しさをもつ自然。神を敬い、マズムヌを恐れる心には、システム化、マニュアル化された社会規範や、合理・効率主義では理解できない、大切なものが含まれている。
以前、言語学者の真田信治さんが、独自の風土があるから、それを表現するための言葉が生まれ、自分達の言葉が存在するのだと書いていた。民族的なものは風土の中で育まれる、風土ある所に民族が生じるのだとしたら、風土なき街が最も民族性を喪失させる場なのかもしれない。著者が唱える「誇り高き池間民族」が、逆に元気旺盛な民族たり得る一因も、そこにあるのではなかろうか。