比嘉光龍(ふぃじゃばいろん・うちなーぐち講師)
1967年出雲生まれ育ちの筆者は高校生の頃、出雲市の拝み師の言葉が全く聞き取れず、通訳が必要で衝撃を受けたという。私はうちなーぐち(おきなわ語)講師という職業柄、アイヌや琉球の少数言語が消滅危機、また世代間交流もままならないという現状は見聞きしているが、青森―鹿児島間の「大和」の人達の言語は「方言」で、意思疎通は世代間可能だと思っていた。
しかし筆者の母は祖母が病院で(県外出身医師)の受診時に通訳として付き添ったという。うちなーんちゅが「大和人」(やまとうんちゅ)として一括りにしてきた人たちは、実は一つではない。明治時代に「大和民族」という概念の誕生と同時に、大和に「まつろわぬ人々」として、出雲、エミシ(東北)、クマソ(南九州)といった諸民族も認識された。つまり日本は多民族国家だと本書は述べる。
さらに、本書で紹介する山浦玄嗣(はるつぐ)の言説もかなり示唆に富む。彼は「岩手県気仙の言葉」を「方言」ではなく英語や中国語とも対等な「ケセン語」という言語だと主張する。ゆえに、ケセン文字を考案し、ケセン語の教科書や辞典、聖書まで翻訳し出版する。山浦氏の行動力も凄いが、言説には米国のキング牧師の主張と同じ崇高さを感じた。また、江戸時代は68カ国に分かれ、言語の差も甚だしく、言語不通の列島で、その解消のために明治期に標準語を作った。けれども、その便利な標準語が各地の言語を消滅に追いやってしまい、今では言葉は通じて当たり前という同質幻想社会になったと筆者は分析している。
そして、第8章では宮古の池間島の人たちが自分たちを「池間民族」と名乗ることについて考察を加えている。本書では「民族」という言葉は一般的に、「民族問題」「民族紛争」などのきな臭い言葉と同一に捉えられがちだが、本来「民族」とは個人にとって「自分は何者か」というアイデンティティの基礎をなす要素と述べている。日本のマイノリティについての情報満載の本書を読めば明日の日本が変わるだろう。