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部落解放研究 202(2015年3月)号 

窪誠(大阪産業大学教授・国際人権法)

 

 著者は、社会学博士号を持つ大学教員であり、かつ、数々の人権NGOで差別と闘ってきた実践者でもある。奥付の著者紹介にもあるように、『中国の少数民族教育と言語政策』(社会評論社、2008年増補改定版)、『日本の民族差別―人種差別撤廃条約からみた課題』(編著監修、明石書店、2005年)、『マイノリティの権利とは―日本における多文化共生社会の実現にむけて』(共著、解放出版社、2004年)などを著し、差別のない多文化共生社会建設を模索してきた。

『中国の少数民族教育と言語政策』『日本の民族差別―人種差別撤廃条約からみた課題』『マイノリティの権利とは―日本における多文化共生社会の実現にむけて』
『中国の少数民族教育と言語政策』『日本の民族差別―人種差別撤廃条約からみた課題』『マイノリティの権利とは―日本における多文化共生社会の実現にむけて』

 ところが、著者は、既存の「多文化共生」観には批判的である。なぜなら、彼によると、そこにおいて、多数派は、「自分たちは同質だという幻想に漬かっている―(中略)同質と思う人たちが、異質と思う人たちに『してあげる』という、恩着せがましいものにもなりかねない(198頁)」からである。とはいえ、著者は、その同質性を批判するために、「アイヌ民族や在日コリアンを矢面に立たせる」必要はないという(90、408頁)。では、どうするのか。「他人事ではない多文化社会を創るためにも、私たちは、幻想の島国論や単一民族論、大和中心の一元文化論を脱し、また近代国家形成以降、特に高度経済成長の過程で否定され、封じ込まれてきた様々な内なる多様性を復権させる必要がある。(中略)多文化社会の構築とは、内なる多様性の復権を伴う、日本人自身のアイデンティティ再構築の作業でもあるべきだと思う(198頁)」。多文化社会は、かわいそうな他者の問題ではなく、自分自身の問題なのだという指摘は、まさに、差別の問題が、かわいそうな被差別者の問題ではなく、自分たち一人一人の生き方の問題であることと共通するものである。

 さらに、問題を「他人事」ではなく、自らの問題として扱おうとする著者の姿勢は、差別する加害者を断罪すればよしとするのではなく、差別の原因に自らと共通するものを見出そうとする方向に著者を向かわせる。それがアイデンティティの喪失である。なぜなら、「反中国・反韓流が勢いづ(375頁)」き、「『日本大好き』『がんばれ日本』『日本を取り戻す』など『日本』や『日本人』が連呼されるのは(vi頁)」、「バブル崩壊後の日本的雇用の崩壊によって企業社会からもはじき出され、よりどころを失(同頁)」い、「自分が何者かを見出せなくなった人々の、アイデンティティ・クライシスの表象のように筆者の眼には映る(vi頁)」からである。実際、排外運動団体の元関係者の証言として、「みんなで日の丸を持つと、自分が強い人間になったように錯覚してしまう。自分を国家そのものに重ねてしまう。だから気分も高揚する。日本人という属性を外せば、それ以外に自分を奮い立たせる機会を持たないからです(393頁)」を挙げている。つまり、「日本人自身のアイデンティティ再構築の作業」とは、他人事の多文化主義を乗り越えるためだけでなく、他者を排除することによってしか自己の存在意義を肯定できない人々に自信をとりもどすための作業なのである。その作業のための構想は、以下の目次によって示される。

大住隼人舞(大住隼人舞保存会提供).JPG
第7章掲載図版《大住隼人舞》 京都府京田辺市大住の月詠神社例祭(2011年10月)、大住隼人舞保存会提供

はじめに 多元社会観に基づくネイション再構築
第1章 出雲からみた民族の創出
第2章 言語不通の列島から単一言語発言への軌跡
第3章 二人の現津神―出雲からみた天皇制
第4章 創られた建国神話と民族意識―記紀と出雲神話の矛盾
第5章 島国観再考―内なる多文化社会論構築のために
第6章 アテルイ復権の軌跡とエミシ意識の覚醒
第7章 クマソ復権運動と南九州人のアイデンティティ
第8章 新たな民族の誕生―池間民族に関する考察
終章 同質社会幻想からの脱却と多元社会観の構築

 まず、「はじめに」において、著者の目指す多文化社会観を「多元社会観」と宣言し、「多元社会観に基づくネイション再構築」を提言する。第1章から第7章において、大和民族、出雲民族、蝦夷(エミシ)民族、熊襲(クマソ)民族の創出が検討される。19世紀後半、日本は近代国家を形成するために、国民たる民族と国の言葉たる国語を創出しなくてはならなかった。ところが、近代国家形成と言いながら、その正当性の根拠は、記紀神話という古代建国神話に権力の由来を持つ天皇におかれていた。こうして、明治期になって記紀神話から創出された大和民族なるものが、近代の日本民族とされることになったのである。ところが、これには大きな矛盾があった。ここでは、二点を指摘するにとどめたい。まず、ひとつめは、記紀神話によって、大和民族が支配民族であるとされたため、記紀神話において被支配民族とされた人々に屈辱感と劣等感をもたらしてしまったことである。そのため、大和民族への反発から、「まつろわぬ人々」として、出雲民族、蝦夷民族、熊襲民族が創出されることになった。ふたつめは、そもそも、建国神話がひとつではなく、天皇のような生き神とされる存在もひとりではなかったことである。筆者は出雲の建国神話を取り上げ、出雲国造という、生き神の存在を明らかにするとともに、それらが国家によって貶められてゆく過程を明らかにする。

海洋池間民族の幟旗
海洋池間民族の幟旗

 以上のように、第1章から第7章までは、国家による大和民族創出とそれに対抗して創出される民族との間の軋轢を中心に語られる。ところが、第8章が紹介する池間民族はこれとは異なる。彼らには、「国家と強く結び付けられることのない中で生まれた自然さ、構成員自身による、より純粋な同族意識が見受けられる(349頁)」からである。彼らこそが、自己存在の主体的肯定、すなわち、個人のアイデンティティに基づく民族創出だというのである。それゆえ、「多元社会観に基づくネイションビルディングの再構築にとって、先進的な役割を果たす可能性をもっている(375頁)」と著者は評価する。

 終章においては、それまでの検討を踏まえて、「列島住民のどの範囲までが大和民族なのか(394頁)」を問う。アイヌの土地であった北海道、琉球王国であった沖縄が違うことはもちろん、越(越前・加賀・能登・越中・越後・佐渡)は近世ですら畿内から辺境とみなされていたこと、実際、「ヌナカワヒメをシンボルとし縄文以来のヒスイ文化を受け継ぐ奴奈川(ヌナカワ)族という自意識もある(395頁)」ことを紹介する。また、九州北部において独自の歴史と文化を持つ宗像族も紹介される。つまり、「大和民族の歴史的領域は、現日本国家領(海)域内の数分の一でしかない(397頁)」のである。こうして、従来の大和民族説を批判したのち、高らかに結論する。

 「私たちは20世紀ナショナリズムの時代、ネイションステイトという概念によって国家と深く結び付けられてしまった『民族』を国家と切り離し、支配者の語り(支配の枠組みとして創りだされた人間集団)から解き放ち、諸個人がルーツや故郷、風土をベースに築き上げるアイデンティティの源として規定し直していくべきだ。(397頁)」

『奴奈川姫物語 翡翠の精』
『奴奈川姫物語 翡翠の精』

 本書によって、人間を支配し、他者をさげすむための民族論ではなく、個人が自己肯定的アイデンティティを確立するための民族論が登場した。しかも、単なる理論的考察ではなく、綿密な取材に基づく、実証的な日本民族論が登場したのである。従来、人権研究者や人権活動家からすれば、民族は否定的に評価されることが多かった。アジア的人権概念の主張にみられるように、国家が民族的伝統を口実にして人権侵害を正当化することがあったからである。しかし、本書が結論するように、民族は国家の語りではなくなり、個人のアイデンティティに属すものになったのである。「あとがき」も、「民族的出自は、何よりも自己のアイデンティティ確立のために活かされるべきだ」と強調している。この点、人権研究者であり、人権活動家である著者が新しい民族論を提示したことの意義は大きい。この民族論はあくまで著者の人権研究と実践に裏打ちされたものだからである。評者がこの点を強調するには理由がある。本書には、誤解を招く危険性のある表現が散見されるからである。

 「少なくとも出雲の人は出雲国造を、まず尊重すべきだろう。(149頁) 」
 「限られた人材の、かけがえのない個性を尊重し発展させ(中略)ていくことが、(中略)今後の日本の国力をも左右することになろう。(390頁)。」
 「多種多様な共同体の総体としての日本であってこそ、より健全な愛国心も育めると、筆者は信じる。(398頁)」
 「同質・均質社会を追求してきた規格大量生産型社会の行き詰まりがもたらした閉塞感から、日本を蘇らせるための鍵が、そこにあるのだ。(399頁) 」

 ここだけ読めば、地方保守政治家の演説と思われかねない。本書だけよめば、地域ナショナリズムの上に成り立つ新たな国家ナショナリズムの提唱とも受け取られかねない。そうした、誤った解釈をゆるさないために、評者は冒頭に著者の人権にかかわる活動と前著を紹介したのである。

 本書が語るのは、自己の存在を肯定するアイデンティティが欠如していると、それを埋め合わせるために差別が生まれるということであり、また、逆に、差別と闘い、差別を乗り越えるための出発点として、自己の存在を肯定するアイデンティティを確立することが、いかに重要であるかということである。出雲出身の著者自身が、出雲弁丸出しの家族を恥じる意識が年少のころからあったことを、「あとがき」で告白している。「本書はそうした自分自身のアイデンティティの捩じれを矯正する作業でもあった。また、これから育つ出雲人、エミシ人やクマソ人たちが、故郷(郷土)を卑下することなく、健やかに自己のアイデンティティを形成できるよう願って書いた本でもある。(403頁)」

 自己の存在を肯定するアイデンティティは、虐げられた人々が立ちあがる際の共通項である。

 差別的な他称を自らに用い、自らの誇りを宣言するだけでなく、すべての人間の尊厳を高々と謳う点において、本書に描かれた民族復権運動には、部落解放運動における「水平社宣言」、黒人解放運動における「黒人意識宣言」、障害者解放運動における「青い芝の会行動綱領」との共通点がみられる。これら三宣言は、『ヒューマンライツ』2002年3月号(No.168)「水平社宣言を読む」に特集されているので、本書とあわせて読むことをお薦めする。

 

掲載誌面

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