岡本雅享
1932年刊『華族物語』は生抜きの華族中、貴族院を代表し得る人物はわずかに3人で、うち組閣の際しばしば閣僚候補者に挙がり、実際入閣したのは千家尊福と岡部長職(ながとも)の2人だという。木曜会のリーダー尊福は、男爵議員の選挙で常に少壮者の当選に努め、恩を感じる者が多かったともある
明治37(1904)年7月の第3回伯子男爵議員選挙では伯爵17人、子爵70人に対し、男爵56人が当選した。23年の第1回選挙から男爵議員が36人増え、横ばいの子爵に迫る勢いとなったのだ。貴族院令が三爵の議員数を各有爵者総数の5分の1以内と定める中、戦争など論功行賞による新授爵者がほぼ男爵で、その数が増大した結果による。これに伴い、31年尊福を筆頭に16人で発足した木曜会は、37年末に46人へ勢力を拡大。子爵中心で山県有朋系の議員が多い研究会の、院内最大会派(79人)の地位を脅かす存在となった。
そこで38年2月、山県系の桂太郎内閣は研究会の優位を保つべく、三爵の議員数を第3回選挙の当選者数以内に限定する貴族院令改正案を議会に出す。男爵議員の増加を阻止する同法案に研究会は賛成、木曜会は反対して鋭く対立。特別委員会で政府原案が7対6の1票差で可決される攻防の中、尊福らは議員総数を原案の143人以内としつつ、三爵の議員数は各有爵者総数に比して定めるという修正案を出す。本会議では、それが129票対128票の1票差で可決された。
子爵の優位を保つため出した法案が、男爵に有利な法律に転じたのだ。実際41年に男爵の総数は377人となり、子爵の376人を超える。『華族物語』は「白晳〔はくせき〕にして柔和な顔と、房々として胸まで垂れる白髯とを見ると、さながら神の権化」とも思われた尊福は、一方で「何事かを企て、それを仕遂げんとするに当り、運動の巧妙なことは、確かに活神力があると噂された」とも記す。その力は山県派にとって屈辱的な結果をもたらし、木曜会と研究会は対立を深めた。
翌39年1月に成立した第一次西園寺公望内閣で、内務大臣となった原敬は、東京府知事でもあった木曜会領袖、尊福との連携を図る。西園寺内閣は同年と翌40年の春に、かつて山県の主導で定めた郡制を廃止する法案を提出。府県と町村の中間にあって郡長や郡役所を伴う郡制は、行政組織を煩雑化させるとして、世論は廃止に傾いていた。だが大地主特権と絡む山県派官僚勢力の地方拠点ゆえに、衆議院を通過した第一次法案は、貴族院で審議もせず廃案となる。
原は第二次法案にあたり、研究会創立以来の幹部で子爵の堀田正養と談判し、賛同を取り付けた。しかし山県派必死の巻き返しで、研究会は総会で否決の方針を固め、堀田は断念。貴族院の大勢が決まる中、木曜会を率い、世論が支持する郡制廃止法案への賛成を貫いたのが尊福だった。
翌41年3月末、西園寺内閣は、鉄道予算をめぐる対立で阪谷芳郎大蔵大臣と山県伊三郎逓信大臣が辞任したのを受けて、内閣改造を行う。司法大臣の松田正久が蔵相に転じ、その後任に尊福を、逓信相に堀田を迎えた。貴族院で郡制廃止法案に協力した二人の会派リーダーだ。尊福62才の春。その入閣は「貴族院木曜会の首領千家尊福を入閣せしむることは、余の兼ての意見なり」と前月21日の日記に書く原が、強く推したものだった。