岡本雅享
尊福は東京府知事になっても、第80代出雲国造としての存在感は示し続けた。明治36(1903)年4月には、兵庫県揖保郡で有志が修築した「野見宿禰墳墓」に参拝し、尽力者50名を慰労している。
日本書紀に出雲国の勇士で相撲の開祖、埴輪の考案者(土師氏の始祖)として登場する野見宿禰を、続日本紀は出雲国造が祖神とする天穂日命の14世の孫と記す。播磨国風土記は、その宿禰が出雲と大和を往来中、揖保郡日下部(くさかべ)の里立野で病に倒れて没し、出雲国人が大勢来て墓山を作ったと伝える。
尊福は大社教管長となった15年に、その墓所を探し出すべく、教職の竹崎嘉通を揖西郡に派遣した。その際郡長の紹介で案内を引き受けた粒座神社宮司が、台山中腹の小古墳を野見宿禰の墓とみて地元の名士に協力を要請。竹崎の報告を受けた尊福も、墓の整備と遠祖を祭る神社の創建を計ることにした。それが実際動き出すのが33年で、尊福は墳墓修築が成った36年、野見宿禰末裔の名で、崇敬人総代と共に兵庫県知事に神社創立願を出した。
その翌37年2月に日露戦争が勃発。尊福は1年半に及ぶ戦中、府知事として戦死者の会葬や遺族の救護などにあたり、寸暇のない日々を送る。その後、龍野で別の宿禰の墓候補地が浮上するなどして、公的な神社創立の試みは立ち消えた。台山中腹の古墳上に建つ祠と鳥居に刻まれた出雲国造家の紋章、たつの市揖西町の土師神社に掛かる尊福揮毫の扁額「野見宿禰大神」が、その思いを今に伝える。
千家府知事の終盤を飾る治績は、戦後の実業発展を目指し、40年3月下旬から7月末にかけ、府主催で開いた東京勧業博覧会だろう。680万人余が来場した、この大イベントを指揮した尊福の逸話が44年刊『名士奇聞録』に載っている。
博覧会開会の翌日、委員長の尊福は俄かに用事ができ、第一会場の貴賓館へ立ち寄ってから、急いで奏楽堂に昇ろうとした。その尊福を守衛がとっさに引戻し「入ってはいけません」と拒む。尊福は思わず「俺は千家じゃ、知事じゃ」と大きな声を出すが、守衛は「千家でも知事でも、特別徽章のない者は入れるなとの委員長の命令です」と返す。
尊福はうっかり徽章を付け忘れたのに気づき「いや徽章は付け忘れたが、俺はその委員長じゃから入れてくれ」と嘆願するが、守衛は聴き入れず「たとえ委員長閣下でも規則は破れません」と力んで、とうとう追い返した。詰所に戻った尊福は苦笑しながら「今度の守衛は規律が正しくてよい」と言ったという。
権威意識が強い当時の他の知事なら、守衛ごときが知事を追い返すとは何事かと怒り、即刻クビにしそうな場面。逆にその生真面目さを笑って褒める、尊福の大らかさが伝わる逸話だ。
そんな尊福について、この頃伊藤博文は「自分が政界に引き入れ、今東京府知事をしてもらっているが、政界に入れず、そのまま神主をさせておいたら、あの人は日本の西の方から、天下の神主に号令する人だろうに。東京府知事にさせてしまい、気の毒なことをした」と、岩倉具視の子・具定(42年、宮内大臣に就任)に話していたという。
伊藤がそう感じたように、尊福は政治家として終わるべき人ではなかった。数年後、尊福は大社教総裁に就き、宗教界の泰斗として復活するのである。