岡本雅享
明治29(1896)年秋に始まる松方正義内閣は、薩摩派と進歩党の衝突が発端となり、1年4ヶ月で瓦解した。30年11月大隈重信が外相を辞任し、年末の第11議会で松方が増税法案を出すと、進歩・自由両党が内閣不信任案を出して反対。松方は衆議院を解散後、31年1月12日に内閣総辞職した。
天皇に後任を任された伊藤博文は進歩党、次いで自由党との連携を図るが、大隈と板垣退助の双方が求める閣僚ポストで折り合えず断念。31年3月の衆院選で300議席中3分の2を獲得した両党は、5月開始の第12特別議会で、伊藤の地租増徴法案に賛同せず、否決する。伊藤は再び衆議院を解散した。
これを機に自由・進歩両党は政党内閣の樹立を掲げて合体し、6月半ば憲政党を結成する。伊藤は新党結成で対抗しようとしたが、政党政治を嫌う山県有朋らに阻まれ、総辞職した。天皇は大隈と板垣に組閣を命じ、6月末に大隈を首相、板垣を内相とする日本初の政党内閣が誕生する。
この大隈内閣発足から半月後の7月16日、尊福は静岡県知事を辞職した。尊福本人が胸中を明かした記録はないが、『静岡県政史話』や『東海三州の人物』は、自分を政界に招き入れた伊藤への義理立てや、政党人の猟官運動に応じる板垣内相の地方官選考への不満を挙げている。大隈は早稲田の自邸に尊福を招き慰留したが、尊福は辞意を覆さなかった。
翌8月の第6回総選挙で憲政党が260議席を得たのは、政党政治への期待の表れだろう。だが長年対立してきた二党が、十分な教義もへず合体した憲政党は、人事をめぐる内紛で早々に不和を生じた。それに乗じた藩閥勢力側の破壊工作もあり、10月末に板垣が内相を辞任、残る大隈も辞職に追い込まれ、大隈内閣は4ヶ月で崩壊する。
その後11月8日に発足した山県内閣の任命で、尊福は同月12日、50才にして東京府知事に就いた。それまでの16代府知事の在任期間が平均1年11ヶ月、最長の第10代高崎五六でも4年2ヶ月という中、尊福は9年4か月にわたり府知事を務める。尊福の府政が支持され続けた証といえよう。
府知事就任後、乱盗伐や開墾などによる府民水源地の山林荒廃に気づいた尊福は33年、東京帝国大学の本多静六教授に多摩川水源地の森林調査を依頼した。本多は水源林経営を怠れば、東京市の飲料水は欠乏し、府下の潮慨用水も不足、土砂流出などで国土保全上も重大な影響が生じる危機的状況で、利害関係が深い東京市か府による水源林の直接管理が急務と答申した。
尊福は関係がより深い市による経営を打診したが、松田秀雄市長は時期尚草と動かない。水源地荒廃を看過できないと判断した尊福は34年8月、西多摩郡氷川村(現奥多摩町)に東京府林業事務所を設けるなどして、水源涵養林の経営を始めたのである。
2001年5月、都民ホールで開かれた水道水源林百周年記念式典で、厚生労働省水道課長は、近代水道創設の僅か3年後に水源地の森林管理を始めた先見性を称え、そのお陰で東京の水道は百年以上にわたり安定給水を実現し得たと、尊福らに感謝した。
府知事としても着実な功績を挙げた尊福は、41年3月に司法大臣、42年3月には東京鉄道株式会社の社長に就くなど、明治末における政財界の重鎮となるのであった。