岡本雅享
近世出雲国学の礎を成した千家俊信(1764~1831)は、門人に向けた「梅の舎三箇条」で、人は再び生まれかわることなく、死後は霊魂を家に留め、永く子孫を守るという。本居宣長に古学を学ぶも、人はみな死後、暗く穢れた地下の黄泉国へ行くだけという師の説には従わなかった。出雲国造家にして神人ゆえの死生観だろう。人は死に肉体が滅んでも、わが子らの行く末を見守りたいと願う。人はまた生前自分を愛してくれた(祖)父母らに、ずっと傍にいて見守ってほしいと願う。師の説を全否定しない俊信は、生前悪事をなした者が罪を受け、家に留まれず行く所が黄泉国だとし、生存中の善行を諭した。
俊信は三箇条で顕露事(あらはのこと)(現世の政)は皇孫が治めよとの神勅により、その任を譲った出雲大神が、八百万神を率いて治めるのが幽冥(かくりよ)だともいう。宣長も注目した『日本書紀』神代巻の(国譲り)一書(あるふみ)に基づく説だ。そして幽事(かみごと)とは「誰なすともなしに万事の成ること」で四季の巡り、世の盛衰もみな出雲大神の幽冥の定めによるとした。
尊福は初期の著作『出雲大社御神徳略記』(明治5年11月)で、この俊信の言説を受け継ぐ一方、平田篤胤『玉襷(たまだすき)』の一文も使っている。篤胤(1776~1843)は宣長の没後門人を称するが、人の魂は黄泉国へは行かず、この世に留まるとした。その目に見えない世界が、大国主神が治める神や霊魂の幽冥で、死後人の魂はそこに赴き、同神の下で縁者を見守りつつ鎮まるとした。俊信は現世の裁きに洩れた重罪は「幽事の罪にあふ」と戒めるが、篤胤は逆に現世で報われぬ善人の魂は、幽冥で善悪を判(わか)つ大国主神に賞され、永世を得るとの救済を説く。篤胤は古学から神学を作り出したのだ。
尊福は早くから、その平田派の著作に接していた。幕末紀州にいた富永芳久に、同じ大社の社家、坪内昌成から、若君様(尊福)が篤胤門人の『霊の宿替(やどかえ)』を読まれ、さらに平田ものをご所望だとし、『天磐笛(あまのいわぶえ)記』他数冊の注文を依頼する書状が届いている。尊福は後に師の中村守手と交わした『千問中答』で、宣長の『古事記伝』には頷けない点があるが、篤胤の『霊の真柱』『古史伝』は納得できるとしている。
明治5年、民衆教化の教導職の最高位・大教正となり、翌年出雲大社教会を立ち上げた尊福は、篤胤の神学を応用しつつ近代的出雲信仰を形成していく。6年8月の同教会仮条例には「出雲大社は幽冥の大政府にて、世の治乱吉凶、人の生死禍福に関する所なれば、人民の生産より死後に至る迄、悉く大神の恩頼に洩る事なき」とある。「今日為す所の一善一悪、皆大神に知られざるなく、死後神列に入って無量の安楽を受け子孫を守護するを得るも亦、大神幽事」の内と説く12年11月の開諭文も、その昇華の過程だ。
従来神道は死を穢れとして避けてきた。だが生を語るのみでは新時代の宗教たり得ない。死あるが故に、生の喜びもある。尊福は幽(死)の世界から顕(生)を説いた。千家尊統は『出雲大社』で、大社教は死の問題に解決を与え得た唯一の神社神道だと述べる。「幽冥の神の恵しなかりせば霊のゆくへはやすくあらめや」と詠む尊福は、生と死二つながらの安心立命の道を説くことで、出雲神道を救済の宗教として確立しようとしたのだ。