岡本雅享
ラフカディオ・ハーンは『日本―解明の試み』(洋書、1904年)でこう記す。「神道崇拝のより高い形としては、国家的信仰とされる皇祖の祭祀が最も重要だが、それは最古のものではない。最も権威の高い信仰は二つある。伊勢の神宮に代表される天照大神と、杵築の大社に代表される出雲信仰である。出雲の神殿は、より古い時代の信仰の中心で、この神々の国を最初に治めた大国主神を祭っている」。
ヤマト勢力が伊勢に及んだ5世紀後半頃、在来の土地神(外宮(げくう)の豊受(とようけ)大神)に天照大神(内宮(ないくう))を合せて祭ったとみられる神宮に比べ、大社の創建は遥かに古いとされる(『日本宗教事典』他)。天神(あまつかみ)と国神(くにつかみ)、それぞれの最高神を祀る伊勢と出雲が神道上の二大拠点であることは、新政府が神道による国民教化を企図した際、神宮(伊勢)と大社(出雲)で東西を二分し、神宮祭主近衛忠房を東部管長、大社の尊福を神道西部管長としたことも物語る。今では多くの神社が使う神宮、大社も、かつては伊勢と出雲だけの呼称だった。
新政府はその両者に上下関係をもたらす。明治4(1871)年5月、伊勢の皇大神宮(内宮)を別格として全国神社の頂点に置き、その他の神社を、天皇との距離によって官幣社、国幣社、府県社、郷社、村社、無格社に格付けして序列化するピラミッド型の神社体系を創り、大社を伊勢神宮の下位に置いた。翌5年、出雲大社大宮司となった尊福は8月、大社は「天(あめ)の下造らしし大国主神を祀り、天下無双の大社(おおやしろ)、国中第一の霊神なれば、宜しく官社の上に列せらるべし」とし、伊勢皇大神宮と同格にするよう求めたが、教部省はこれを拒む。
教部省は神仏合同布教を唱えた真宗本願寺派の島地黙雷らの提案に賛同した、同じ長州出身の木戸孝允らの主導で設立された。だが5年3月の教部省開設時には、木戸は岩倉使節団の副使、黙雷も本願寺の海外教状視察団の一員として洋行中で不在だった。留守政府では、西郷隆盛を後ろ盾にした薩摩派が教部省の主導権を握る。廃仏毀釈を徹底し、真宗を禁圧した鹿児島藩出身者たちだ。その頃黙雷は英国で岩倉使節団と合流し、欧州の政教分離の実態など見ながら、木戸やその傘下の伊藤博文らと宗教政策を論じ合っていた。二人の計らいでインドの仏蹟を巡り、6年7月に帰国した黙雷は、教部省下で開院した大教院の実態を見て驚く。
同院が置かれた東京の芝増上寺は、本堂の阿弥陀仏を撤去して造化三神と天照大神を祭り、しめ縄を張り、門前に鳥居を立て、幣帛を捧げ、祝詞を奏する有様で、黙雷は「宛然(えんぜん)たる一大滑稽の場」と批判した。黙雷の大教院分離建白書を受けた真宗四派が明治8(1875)年2月に脱退、その2ヵ月後に大教院は解散、神仏合同布教も廃止に至る。
これに対し神道関係者は神道教導職の新たな拠点として、東京の神宮司庁出張所内に神道事務局を設けた。同年末、同局が招集した神道会議で神殿の造営が議事となるにあたり、尊福は再び天照大神と同列に大国主神を祀るべきだと唱える。これが端緒となり、神道界を出雲派と伊勢派に二分し、総数13万3087人を巻き込む「祭神論争」が勃発した。この論争は近代日本の宗教史を画する一大事件となり、尊福の名を列島各地に響き渡らせることになる。