岡本雅享
福岡図書館の創設は明治29年春、初代出雲大社福岡分院長の廣瀬玄鋹(はるなが)と旧福岡藩士で国学者の海妻甘藏(かいつまかんぞう)、旧秋月藩士で神官の江藤正澄(まさずみ)、「博多新聞」創業者の松田敏足(としたる)の4人が発起した。神社の境内に図書館を建てた発想の源は千家尊福国造が明治7年4月、出雲大社境内に設けた図書館にあるといえよう。明治5(1872)年11月に第80代出雲国造となる尊福は、それに先立つ同年6月、政府が国民教化のため設けた教導職の最高位である大教正と神道西部管長(全国の半分―1府2港36県を統括)を兼任する地位に就いていた。尊福は教導職の教化活動を展開すべく、明治6年11月大社内に仮中教院を置き、その文化活動の一環として翌7年春、境内で書籍縦覧所を開設。神社や社家が所蔵する多量の書物を集めて神職・教導職の勉学や一般民衆の啓発に当てた。
尊福国造はそれに先立ち、明治6年5月、大社境内で20日間にわたる博覧会も開いている。明治政府が初参加したウィーン万国博覧会(同月~10月)に合わせたその催しで、祭典を執り行い、出雲大神に開催を奏上したのは、当事権禰宜だった玄鋹の父、第16代広瀬綱鋹である。玄鋹は18、9歳の頃、尊福が教化の一環として行った先進的な文化活動を、間近に見ていたのである。尊福の後を継ぐ大社教総裁・千家尊紀(たかのり)は福岡図書館開館式の祝辞で「大社教に在り教義を弘布する者は常に進取の気象を奮起し社会の進運を幇助するの覚悟なかるべからず」と述べた。私財を投じ自ら奔走し、福岡に近代図書館を築いた玄鋹は、生涯それを貫いたのだ。玄鋹はこの図書館事業を通じて、旧福岡藩や大社教関係者をはじめ多くの賛助者を得た。図書館報に並ぶ2500人近い同館会員名簿が、その広がりを物語る。
生き神とされた出雲国造には明治の初めまで移動の制約があり、外遊することはなかった。それでいて維新時23歳の尊福がわずか数年で宗教界の泰斗となるのは、その卓越した人望・指導力もさることながら、各地に派遣していた御師などを通じて諸国の動向を把握し、時代の変化に素早く対応できたからだろう。幕末における大社御師の壇所は中国・四国・近畿一帯はもちろん、南は九州の日向、東は東海の尾張・駿河や関東甲信越の越後・信濃・江戸に及ぶ27カ国に亘っていた。
文化15年の吉田家文書は、第12代廣瀬信睦が長崎の高木作右衛門とも懇意だったと伝える。朱印船貿易で財をなし、江戸期を通じて長崎の主導権を握り、舶来の書籍など世界文化の輸入を一手に引き受けた頭人、町年寄だ。玄鋹は『福岡図書館報』第3号の「図書館」で、英仏の国立図書館の蔵書を賞賛しつつ、最先端は米国だと詳しく分析している。近世から出雲と筑前の間を往来し、長崎で海外の情報にも触れていた御師の家系ならではの視野の広さだろう。
ラフカディオ・ハーンがダライラマに比肩する存在と記した出雲国造。中でも明治期、各地の出雲信仰を束ねて大社教を立ち上げ、国民の1割が信徒という教勢に拡大した第80代千家尊福国造の功績は大きい。その基盤には近世以来、列島各地で活躍していた出雲御師やそれを支えた人々の繋がりがあった。尊福の生涯と近代出雲信仰の広がりをみていきたい。