ホーム > 連載・寄稿 > 千家尊福国造伝 > 記事一覧 > 大社御師広瀬家と福岡藩家老吉田家との縁 プロローグ2 山陰中央日報 2018年1月26日掲載

千家尊福国造伝 プロローグ2 (2018年1月26日掲載)
大社御師広瀬家と福岡藩家老吉田家との縁

岡本雅享

 出雲大社福岡分院は千家国造付きの社家、廣瀬家の第17代玄鋹(はるなが)が明治30年5月、福岡市荒戸町(現中央区大手門)に開いた。廣瀬は近世、筑前国を壇所(布教担当地域)とする出雲御師でもあった。明治36年1月『福岡図書館報』第2号掲載の「大社教福岡分院録事」などをみると、廣瀬は福岡藩の吉田家との縁を通じて、筑前で幅広く出雲信仰を広めていたことが分かる。

明治31年刊行『大日本名所図録 福岡県之部』(大阪大成館編)掲載の「福岡県筑前国福岡市出雲大社分院之図」
明治31年刊行『大日本名所図録 福岡県之部』(大阪大成館編)掲載の「福岡県筑前国福岡市出雲大社分院之図」

 江戸中期、第12代の廣瀬信睦が長崎に逗留した折、長崎御番役(幕府に課せられた軍役)として滞在していた福岡藩の中老、吉田栄年(まさとし)(1685~1761)と出会い、文芸を通じて親しくなる。吉田家は藩主・黒田家の創業以来の家臣で、家老や当職(家老主席)を歴任していた。第6代の栄年は享保6(1721)年3月に中老、同12(1727)年8月老中となっているので、この間だろう。その後栄年は任期を終え福岡藩へ、信睦も出雲に帰ったが、老中に昇進した栄年は、かねての約束通り出雲に使いをやり、信睦を筑前に招いた。信睦は栄年の庇護の下、領内各地で大社の神符を頒布するようになる。

 吉田家側の文書「出雲大社神主広瀬家由緒書」をみると、栄年が当職の座にあった頃(1730~44年)、国中が蝗害(こうがい)(バッタが稲などを食う害)に苦しみ、飢餓者が道端に溢れた。その時、信睦が蝗災を祓う祈祷札を福岡藩内に広く施し、黒田公も大社に祈祷札を納めたとある。廣瀬家は代々栄年の厚情を忘れず、何かと吉田家の安否を伺った。文化15年の吉田家文書は第14代廣瀬右仲(玄長)が文化元(1804)年、博多妙楽寺へ栄年の墓参に訪れたと記す。妙楽寺に栄年の供養料を供えるばかりか、廣瀬は嘉永6(1853)年には栄年の肖像を描き写し、神号を出雲国造より賜って自ら祭りたいと申し出た。

 こうした両家の関係は明治維新で一旦途絶えるが、廣瀬は明治10年代に入ると再び福岡で神符の頒布を始めた。安政2年生まれの玄鋹は明治10年代末、大社教の九州出張所を設けるべく、吉田家の誘いもあり、単身下関から干鰒(ほしふぐ)船に便乗して博多港に着いた。明治20(1887)年、荒戸町の旧吉田家屋敷300余坪を縁故払下げしてもらうなど、吉田一畝の協力を得て活動を始める。後に大社教大教正となる江藤正澄が主導した荒津山(現福岡市西)公園の整備に協力などした後、明治26年2月に分院新築を発起。大社教の千家尊愛(たかあき)管長を迎えて開院式を行ったのは30年5月25日である。翌明治31年発行の『大日本名所図録』は敷地700坪という分院の広い境内を今に伝える。

 廣瀬家と吉田家の縁は、玄鋹が一畝の二女花子を後妻に迎えるなど、明治期一層深まった。博多の櫛田、十日恵比須神社なども兼務する玄鋹に代わり、図書館の実務は司書役の一畝が担った。いっぽう玄鋹は吉田家の旧家臣で職がない者がいると、賃金を出して「福岡県地理全書」など書物を筆写させ、蔵書に加えるなど、先祖伝来の吉田家への心配りを忘れなかった。

 玄鋹没後、福岡図書館の本館は福岡市千代町の古賀胃腸病院の病棟として使われ、1991年まで残っていた。一畝と親しかった古賀得四郎が買い取って移築したのだ。福岡市立総合図書館展示の瓦は、1986年1月、古賀元晁氏寄贈とある。