岡本雅享
『日本書紀』敏達(びたつ)天皇十年閏二月の条に「盟に違(たが)わば天地諸神及び天皇霊(すめらみことのみたま)、臣が種(族)を絶滅(たや)さむ」というくだりがある。古代王権を樹立した天皇には、これほど強い威霊が付着しており、それを代々継承してきたのが生き神としての天皇だと、宮田登著『生き神信仰』はいう。霊魂の付着現象は一般人にもあるが、万世一系の王権を維持してきた天皇霊は、個々人が付着させる霊魂の中で、とりわけ強力である。それを入れ得る唯一の存在が今生天皇であり、霊威を受け継ぐため行われるのが大嘗祭だとする。大嘗祭で身につけた天皇霊は毎年冬になると衰弱する。それを神人共食の神事で蘇生・復活させるのが新嘗祭という意義付けになる。
出雲国造も古来、祖霊を継承する火継(ひつぎ)の神事や、毎年の新穀を神と共食する(古伝)新嘗(しんじょう)祭などを連綿と続けてきた。そこに「神の憑坐(よりまし)」(神霊が取り付く人)を表す御杖代(みつえしろ)と呼ばれる所以がある。出雲大神の祭祀を専修する国造は、その身に大神が依りかかることから御杖代と呼ばれ、大神と神慮一体の生き神様と敬われているのだ(出雲大社教『出雲さん物語』)。神祭では榊に玉などを着けて神聖な神籬(ひもろぎ)とし、神を招き迎える憑り代とするが、国造もまた出雲大神が憑りつく神籬としてある。そのため国造には、いつ大神に憑かれても支障がないよう、厳しい潔斎が求められてきた。
村上重良著『日本宗教事典』は、御杖代が「神の意志が拠りとどまる人間」を示すことからも、出雲国造はかつて、出雲人の神を体現する生き神として国を治めていた王であり、その王権の霊統を受け継ぐ儀式が「火嗣(ひつぎ)の神事」だったのではないかという。
火継の神事では、国造が没すると、その嗣子(しし)は忌に服することなく、古代から伝わる燧臼(ひきりうす)、燧杵(ひきりぎね)を携え、直ちに意宇の熊野大社に赴き、鑽火(さんか)殿で神火を鑚(き)り出し、その火で調理した斎食を食べることで新しい国造となる。火はタマシヒの霊(ひ)、神火は祖霊の霊魂の象徴であり、国造は火(霊)継式で祖霊を身にうけ、その霊魂を継承することで、祖霊と同一の霊能を得るのだ。国造自ら鑚(キ)り出した火は在世中、国造館のお火所で灯し続け、国造は終生その神火で作った斎食のみとる定めも、近代に至るまで続いた。
江戸前期の儒者、林鵞峰(はやしがほう)の日記『国史館日録』の寛文7(1667)年6月12日の条に「出雲大社の神人来たりて談ず」というくだりがある。出雲国造の代替わりを「父死す、子代わりて国造となる。その(一)族、前の国造を哭(こく)せず。ただ新国造を賀するのみ。子父の葬(そう)に会せず」と綴る。千家尊福も明治37(1904)年「出雲国造葬祭に関する取調書」で「国造には古来服忌(ぶっき)なし」と述べている。出雲国造は永生にして不死だとみる、こうした継承の仕方は、儒教や仏教伝来以前の霊魂観・生命観を表すものだと、第83代千家尊統国造は著書『出雲大社』で述べている。
毎年晩秋、出雲大社で行われる古伝新嘗祭では、冬の訪れとともに減退する出雲国造の霊力を、神人共食の相嘗(あいなめ)によって蘇らせる。その後、国造が榊の小枝を両手に持ち、神歌に合わせて奉納する「百番の舞」は、五穀豊穣への感謝と共に、神人合一の姿を体現したものだともいわれる。