岡本雅享
出雲国造は古代においてヤマト政権に服属した出雲王の末裔とみられている。国造は一般に「くにのみやつこ」と読むが、第82代出雲国造・千家尊統(1885~1968年)によれば、出雲では昔から音読み、清音で「こくそう」と呼んでいる。尊統は著書『出雲大社』で、国造は大化前代において、その国の土地を領し人民を治め、祭政の一切を司り、その機能を世襲する地方君主であったとも述べている。
歴史学者の故門脇禎二氏は、古代の列島にはツクシ、キビ、イヅモ、ヤマト、ケヌなど独自の王権、支配領域、統治組織、外交等の条件を備えた地域王国が複数並存していたが、互いの交渉や競合の中でヤマト王国が台頭し、他の王国を統合していったとする。国造は一般に、倭(やまと)勢力に服属した各地の豪族を地方官に任命したものとされるが、瀧音能之著『古代の出雲事典』などが倭政権から「半独立状態ともいえる権力をもつ者もいた」とするのは、豪族レベルを超えた地域王国の王が国造に転じたとみられる例があるからだ。その最たるものが、一国一国造を維持し続けた出雲国造だといわれる。
統一を目指す倭政権は律令制の導入に伴い国造を廃止し、畿内から諸国へ国司を派遣するようになり、国造は一般に統治権を失ったとされる。しかし出雲国造は律令制下でもその称号を維持し、出雲国意宇郡の大領となり、一族の出雲臣が楯縫郡の大領、仁多郡・飯石郡の少領になるなどして統治権を維持し、その影響力は根強く残った。
『続日本紀』の文武天皇2(698)年3月9日条には、出雲国意宇と筑前国宗像だけは、郡司に他では禁じた三親等以上の連任を認める特例を詔で出したとある。現存する風土記中、ほぼ唯一完本で残る出雲国風土記(733年)も、国司ではなく第25代出雲国造、出雲臣広嶋が編纂し、オミヅヌ神の国引き神話や「天の下造らしし大神」(大穴持(おおなもち)命)の巡行など、独自の出雲神話を綴る。そこでこの出雲大神が、自らが造り治めてきた国を皇孫に譲る一方、出雲の国だけは自らが鎮座する国として、青垣山を巡らし、治め続けると表明している(意宇郡母理郷)のも、当時の政治状況の反映だろう。
出雲国造神賀詞(かんよごと)も、他に例を見ない儀礼だ。出雲国造は8世紀を中心に、就任にあたり朝廷に出向いて任命を受け、いったん出雲へ帰って1年間潔斎した後、再び入朝して神賀詞を奏上。また出雲に戻り、さらに1年の潔斎をした後入朝し、2度目の神賀詞を奏上していた。神護景雲2(768)年の出雲臣益方の奏上では、位と禄を賜わった随行の祝部が男女159人と記録されるなど、出雲から毎回大規模な訪問団を派遣していた。延長5(927)年成立の『延喜式』祝詞に収まるこの神賀詞の中で、出雲国造は天皇(すめらみこと)の御世を賀しつつ、祖神天穂日(あめのほひ)命が国譲りに貢献し、また大和王権揺籃の地に座す三輪山に大穴持命が自らの和魂を鎮めたと語る。
出雲国造が政治権力を失い、出雲国内諸社の祭祀のみに携わることになるのは、朝廷が延暦17(798)年3月29日付けの太政官符で、出雲国造の意宇郡大領(郡司の長官)兼務を禁止してからだ。その後、出雲国造は居所を意宇郡から出雲郡へ移し、「杵築大社(きずきのおおやしろ)」(1871年以降「出雲大社」と改称)の宮司としてその職を世襲し続け、14世紀半ばに千家家と北島家に分かれ、以来、両家で祭祀を分担し、幕末に至ったのである。