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越佐と出雲2 新潟日報2016年2月26日掲載
出雲崎から出雲田へ

岡本雅享

 

 佐渡最古といわれた相川の老舗旅館出雲屋と、沢根の廻船問屋で名主となった浜田屋は、開祖がそれぞれ出雲と石見(現島根県東部と西部)の出身だという。その佐渡と向き合う出雲崎の草分け、当町髄一の旧家とされたのが、江戸時代の禅僧・良寛の生家でもある廻船問屋橘屋の山本家だ。

【写真1】現石井神社が鎮座する十二山。井鼻の十二山から移った時、故地の名をとったものとみられる。後方に良寛記念館が建つ虎岸ケ丘。
【写真1】現石井神社が鎮座する十二山。井鼻の十二山から移った時、故地の名をとったものとみられる。後方に良寛記念館が建つ虎岸ケ丘。

 明治2年の石井神社記で「旧地即ち井鼻の十二山是なり」と書いたのは、その橘屋次郎左衛門こと山本伊織。前出雲崎町文化財審議委員長の磯野猛さん(86才)は若い頃、良寛顕彰の父と呼ばれる佐藤耐雪(たいせつ)翁から、橘屋は名主として石井に移るまで井鼻にあったと教わった。石井神社はもともと橘屋の屋敷神(氏神)で、橘屋の移転に伴い今の地に移ったと、磯野さんはみる。

 石井神社に隣接する良寛記念館が建つ虎(ほ)岸ケ丘は、かつて橘屋歴代の墓地だった。耐雪翁は、その半生をかけた『出雲崎編年史』で「出雲崎の始祖は……漂着せる出雲人此所(ここ)に一村を墾きしとも云ひ……出雲崎人は……潮流相通ぜる出雲と何等の関係結ばれるや疑を挟む余地なし」と記す。石井神社がもともと山本家の氏神なら、その先祖が出雲出身だった可能性も高い。

 井鼻に隣接する久田(くった)には、出雲大神(大国主神)の上陸地との伝承がある。そこから一山超えた内陸の乙茂(おとも)は、鎮守・宇奈具志(うなぐし)神社の祭神天菩比(あめのほひ)命が出雲大神のお供をしてきたので、その名がついたという。

 天菩比(天穂日)命は、古代出雲王の末裔とされる出雲国造(こくそう)(現出雲大社宮司)家の祖先神。この二神が出雲から海路、能登の先端を回り、佐渡の海峡に入って久田の浜に上陸、船を引き上げ囲った場所が赤坂山に連なる「囲(かく)いの沢」だとの伝説もある。

【写真2】出雲大神が出雲国造の祖先神を伴い、久田の浜に上陸した後、船を囲ったと伝わる、かくいの沢。
【写真2】出雲大神が出雲国造の祖先神を伴い、久田の浜に上陸した後、船を囲ったと伝わる、かくいの沢。

 乙茂からさらに内陸に入り、与板をへて信濃川を渡ると、南北10㎞に及ぶ旧出雲田(いずもだ)庄のエリアだ。その領域は概ね旧中之島村一帯(現長岡市内)と見附市西部、旧栄町(現三条市)西部にあたる。同庄の南東部、現見附市市野坪には大国主命を祭る出雲神社が鎮座。出雲田庄の一部を開発して一の坪村と名づけた板垣氏の先祖が創建したと伝わる古社だ。

 『市野坪板垣家家系史』をまとめた故板垣良助さんは「大国主命が出雲の国から船で越後の海浜(出雲崎)に上陸し、以後出雲国と越後の交流がはじまり、地名も出雲田ノ荘と呼ばれた」という、久田と繋がる地名伝承を記す。すると、沿岸の出雲の崎(さき)に対し、内陸の田園地帯を出雲田と呼んだようにも思える。

 一昨年の秋、出雲崎町主催の生涯学習講座の受講生たちと十二株山の神屋敷を訪れた。数十年ぶりに大勢の人が来て神様も驚かれただろう。石川県羽咋郡志賀町にある能登の出雲神社は、石井神社と同じく、長い石段を登った山の中腹に鎮座する堂々たる古社だが、毎年初夏の出雲神社創建を祝う例祭は、集落の開祖・谷崎家の敷地内にある祠(元宮)から始まる。十二株山の神屋敷でもいつか、お祭りが復興できたら―そんな願いを抱くようになった。

【写真4】十二株山の神屋敷=石井神社元宮の祠。12株の大樹伝説にふさわしい大木の傍らに建つ。
【写真3】十二株山の神屋敷=石井神社元宮の祠。12株の大樹伝説にふさわしい大木の傍らに建つ。