「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺跡群」がユネスコの世界遺産となった。航海安全を祈る信仰が、日本とアジア古来の海路による交流を物語る点が評価された。航海、交易、信仰に関する研究を継続・拡充するようにとの世界遺産委員会の勧告を受けて、宗像人の海を介した交流に一層光が当てられてゆくだろう。
宗像から沖合に漕ぎ出し、対馬海流にのって着くのが出雲だ。出雲人の私は、列島各地の出雲地名や出雲神を祭る古社、考古学の成果などを手がかりに、出雲を原郷とする人たちの足跡を追う中、行き先の日本海沿岸で度々「宗像」や「安曇(あづみ)」に出会った。
例えば能登半島西岸の石川県志賀(しか)町。かつては潟湖、福野潟の湖岸だった地や上流の川筋に、出雲神を祭る古社が10社ほど分布する。その最奥部に出雲(旧村)があって、古代出雲国の住民が海を渡り、福野潟を越えて居を定めたとの地名由来が残る。出雲国から当地に来て、出雲神社を創祀したと伝わる旧家も健在だ。
福野潟を形成した海岸砂丘の突出部に鎮座するのは、宗像三神を祀る意冨志麻(おおしま)神社(志賀町大島)で、出雲の隣には安津見(あづみ)(旧村)がある。筑前国糟屋郡阿曇(あづみ)郷(福岡市志賀島周辺)を原郷とする海民が、日本海を北上して旧福野潟に入り、奈豆美比咩(なずみひめ)神社(祭神はトヨタマヒメ)を創建したと伝わる。志賀町の旧福野潟周辺には、こうした海を渡る移住を示唆する伝承が多い。
南北百㎞にわたる能登半島には、対馬海流とともに西から沖合をきた船もぶつかる。志賀町の地名・神社・伝承は、安曇と宗像、出雲の海人が三つどもえで、能登へ渡ってきた歴史を刻むかのようだ。
能登半島北約50㎞沖の舳倉(へくら)島には近世初め、宗像の鐘崎から移住したと伝わる海人の子孫が住む。半島東岸、七尾湾の穴水町にも宗像三神を祀る古社、辺津比咩(へつひめ)神社がある。『出雲と能登の神々』の著者、円山義一さんは、半島沿岸の宗像神を祭る神社の分布は、出雲族と宗像族の結びつきが能登にも及んでいる証だと指摘する。
宗像三女神は古事記と日本書紀の本書(正伝)で、出雲神スサノオの御子神として登場し、そのうちタギリヒメは出雲大神と結ばれる。出雲大社に摂社として筑紫神社がある所以だ。その関係を紐解けば、大和と結ぶ前の、宗像の姿が見えてくるのではないか。
対馬海流の道は能登から越後へ向かい、阿賀野川や只見(ただみ)川をへて会津に至る。この二大河川が合流する会津盆地の入り口、福島県喜多方市山都町には出雲神社2社とともに、古代の創建という宗像神社もあり、宗像大神は只見川を遡上してきたとの伝承が残る。
只見川支流域の昭和村で、出雲大神を祭る気多(けた)神社を訪ねたら、境内に宗像大神を祭る祠もあった。只見川沿いの荒屋敷遺跡(大沼郡三島町)では、弥生時代前期の遠賀川式土器も出土。対馬海流の道で北上した宗像、出雲の信仰・文化は、ともに越後をへて会津にまで至っている。
宗像・安曇といえば、大和政権との関係に伴う瀬戸内方面への進出が語られがちだが、筑紫(北部九州)を原郷とする人たちの流れを、日本海沿岸への展開や大陸との往来も合わせて捉えることで、その海民としての独自性は、より浮かび上がってこよう。