尹雄大(インタビュアー、ライター)
明治政府は天皇を中心とした近代国家の形成に方途を定め「古事記」と「日本書紀」を交ぜた「記紀神話」を創作、「国史」として広めた。
天皇を生み出したヤマトの神話はこう著す。出雲の大国主神が少彦名命らと国作りをした後に、天照大御神らに国譲りをした。著者はそこに疑義を抱いた上で「出雲の謎とは、この国の成り立ちに対する疑問なのである」と続ける。
日本海側はかつて「裏日本」と揶揄され、国力が乏しい地だと印象付けられた。だが1984(昭和59)年、出雲市で「日本全国で出土した銅剣の総数を上回る358本の弥生銅剣」が出土。出雲がヤマトと拮抗する力を持っていたなら、国譲りとは何を意味したのか。
出雲人が編さんした「出雲国風土記」では、オオナムチ(大国主神)は「国を譲らないし、隠れもしない」。他の土地はいざ知らず、出雲は「今後も自らが治め続ける」と宣言している。
著者は、両者の神話の齟齬と出雲独自の権力基盤を探る中で、各地に散らばる出雲という地名や出雲神社の存在に着目する。拡散の原動力は青潮という海流だった。
出雲では重要な女神、ミホススミを祭る神社は出雲から能登、越後、さらに信濃から千曲川を経て南下し武蔵に至っている。海路が地域を結びつけており、これが「列島における文化伝播の一つのルート」であった。さらには日本海ルートで新羅や高句麗と出雲が結びついていたことも指摘される。
出雲の姿は、ヤマトと同様に権力を同心円状に広げていく王権として捉えては見えてこない。著者は言う。「出雲を原郷とする人たちの移動は、覇権や領土拡大とは異なる、青潮の流れに沿った移住や文化などの伝播」であったと。出雲は確かに衰微した。だが出雲の国譲りをただの敗北と眺めたときに、中央と辺境という二元でしか史実を捉えていないことが明らかになる。
本書を読み終える頃には、国家が用意した国家と国民像とは異なった「もう一つの鏡に映し出された私たちの姿・ルーツ」を知ることになるだろう。