岡本雅享
尊福は明治30(1897)年4月、埼玉県知事から静岡県知事に転任となる。その背後には中央政界の激変があった。当時政界では長州の伊藤博文、山県有朋、薩摩の松方正義の藩閥三派と板垣退助の自由党、大隈重信の改進党の二大政党が競合。そのうち伊藤内閣と自由党との提携が、日清戦争後の三国干渉を機に進み、第9回帝国議会後の29年春、板垣は内相に就任する。これに対し松方と大隈が歩み寄り、改進党は同春小会派を合わせ、自由党に匹敵する勢力の進歩党を結成した。
伊藤は主要な藩閥と政党の有力者を網羅して自らが率いる超然内閣を目指し、29年5月末の陸奥宗光外相辞任を機に、進歩党を率いる大隈を外相、薩摩派の松方を蔵相にする挙国一致内閣の結成を計る。だが大隈入閣に板垣が猛反発。撤回すると、今度は松方が猛反発した。進退窮まった伊藤は同年8月末に首相を辞任、処理を天皇に委ねる。天皇は松方と大隈を大臣にする一方、長州派の山県に首相就任を求めるが固辞され、同年9月半ば、松方が首相を兼任し、進歩党が与党の「松隈内閣」が発足した。
進歩党と提携した松方内閣は、第10回帝国議会後の30年春、8県知事や農商務省次官などの官職を進歩党員に与えた。その一つが同党の衆議院議員、田村政(ただす)の埼玉県知事任命である。埼玉県内の自由党員は反発し、千家知事留任の請願運動を計るが、尊福は時の内閣と毛色を違え、政見が異なるため罷免となるのは仕方なく「余が良心に於て恥づべき点なき以上は、徒らに異見の内閣に付随するは反て内に心苦しきを感ず」(『八州』第38号)と制した。松方は内務卿時代、尊福らが衆議による解決を望んだ祭神論争を、伊勢(薩摩)派の要求通り勅裁で収束させ、また神道の非宗教化を計る神官教導職分離を主導した人物である。その松方内閣では、内務大臣も元薩摩藩士の樺山資紀に代わっていた。
こうして長崎県へ移った小松原前知事に代わり、第6代静岡県知事となった尊福は、新任地到着の日「むら山にたちこそ越ね不二の根の雪には恥ぬ心とも哉」と詠んでいる。『埼玉公論』は「赴任以来、鋭意熱心県治に労苦し……県民は皆能く其功を称し、其徳に服し」たと尊福の県政を称え「父子相別離するの情を以て之を送らざるものある乎」と離任を惜しんだ(第14号)。
静岡は徳川家の拠点、駿府を擁し、将軍を辞した15代慶喜が慶応4(1868)年夏から2年余謹慎した地だ。新政府が駿河70万石に封じた16代当主の家達(いえさと)が、明治2年に静岡藩知事となり、4年の廃藩置県まで治めている。新政府に仕えるのを好まず、徳川家に従って移住した旧幕臣は4年時点で約1万3800人、家族や従者を含めれば数万人に上った。そのため政府は当初、静岡の動向を非常に警戒していたという。
近世出雲も徳川親藩の松平家が治めていた。慶応4年2月末の山陰道鎮撫使事件では家老切腹の上、重臣一同が雪中土下座で官軍に松江城を開く苦渋を味わう。その松江藩の修道館総教授、雨森精翁を師にもち、出雲歌道を通じて藩士とも親交のあった尊福であれば、静岡県民の感情にも寄り添い得ただろう。『日本の歴代知事』は、尊福は1年3か月の短期だったが、書記官と警部長を信任・重用し、円滑な静岡県政を行ったと評している。