岡本雅享
マイノリティという言葉が、民族と関連づけられるのは、1919年のパリ講和会議が発端であり、パリ講和条約のナショナル・マイノリティに相当する漢字語として、日本で造られ、使われ始めたのが「少数民族」である。第一次世界大戦によって、複数のネイション(民族)を含む三つの帝国が解体した後、中欧では各々一民族がマジョリティとなる民族国家ができるよう新たな国境線が引かれた。この国境変動によって各民族国家内でマイノリティとなる民族の権利を保障すべく、敗戦国や中欧の新興国家に課せられたのが、国籍選択権、民族語の公的使用や民族学校の設立などを定めた「少数民族」保護条約だった。国際連盟時代、常任理事国として「少数民族」問題の調停に関わっていた日本の外務省は、第二次大戦の敗戦直後、今度は自らが「帝国」の崩壊に伴う国境変動により、朝鮮人や台湾人について「少数民族」保護義務を課せられることを想定していたが、冷戦下での戦後処理と米国ベースでの国際連合の発足によって、日本と48連合国との間で結ばれた対日講和条約(1952年)には盛り込まれなかった。
いっぽう戦後の日本社会では、「一国一党の原則」を背景に、日本共産党が在日朝鮮人を日本国の少数民族と規定したのに対して、朝鮮民主主義人民共和国が共和国国民としての性格を表明するという軋轢の中で、漢字語「少数民族」は国籍と結び付いた概念へと変容していく。こうして、戦後日本における「マノリティ」「少数民族」観は、中欧から東まわり(ソ連、中国経由)できた「少数民族」観と、西まわり(西欧、合州国経由)できたマイノリティ観が混在する形になった。同化主義者の吉田茂らが「在日朝鮮人は少数民族ではない」といった時、それは民族的権利を保障すべき国際法(条約)の主体とはしないという意思の表れだったが、相反する文脈で、表面的に在日朝鮮人運動の主張と一致したのはそのためだ。
本来、在日コリアンや台湾人は、帝国の拡大と崩壊に伴う国境変動の過程で生じ、自らをマジョリティとする民族国家を祖国として持つのだから、戦後の平和条約において、地位と民族的権利を保障されるべき国際法の主体―ナショナル・マイノリティにあたると思う。1994年に国連で規約人権委員会が、国際人権規約(自由権規約)第27条が定めるエスニック・マイノリティの権利は、締約国内にいる永住者や短期滞在者にも適用されるとの解釈を採択した。日本政府が認めないなら、日本国内の朝鮮民族が27条の権利対象であるか否か、どの程度の権利が保障されるべきか、考えを整理したうえで、司法の判断を問うのも一手ではないか。国連における27条、その枠内で起草・採択されたマイノリティの権利宣言やその逐条解釈と、在日の歴史的経緯・現状を対照すれば、民族学校の設立・運営の保障ぐらいは堂々と主張できるだろう。
(月刊『イオ』No.120=2006年6月号掲載)