ホーム > 千家尊福国造伝 > 記事一覧 > 千家尊福国造伝 第5部・大社教特立へ④教導の道を貫く―勅裁による収束に最後まで反対 山陰中央日報 2018年6月27日掲載

千家尊福国造伝 第5部《大社教特立へ》④ (2018年6月27日掲載)
教導の道を貫く―勅裁による収束に最後まで反対

岡本雅享

 祭神論争を詳細に検証した藤井貞文(国学院大学名誉教授)は、尊福の建議を巡る多数の書簡を調べ、否定論より賛成論が遥かに多いと分析している。論鋒は常に尊福が鋭く、田中頼庸は受太刀だったという。重厚な本居・平田国学に依る希代の論客を前に、誰にも師事したことがない頼庸では分が悪かった。公正な場で正面から議論すれば、尊福の大国主神合祀論が通るのは目に見えていた。社寺局長桜井能監の調停で、明治13(1880)年9月末に結んだ協約を頼庸が反故にしたのも、衆議公論や多数決による決定を阻むためだろう。

 神宮では5年夏以降、神宮教院と説教所(教会)を設け、各地の信徒を神風講社に組織化しつつ教化活動を行っていた。一方太政官は5年6月、キリスト教対策として自葬を禁じ、神官による神葬祭を認める布達を出す。神仏合同布教下では仏教による葬儀を容認していた神宮も、8年春の大教院崩壊で、神葬祭の普及と霊魂の救済を説く教義に本腰を入れ始めた。そこで大国主神を幽冥主宰神と認めれば、天照大神は単に顕界を治め、死の救済には何の神徳もない神になってしまう。伊勢派は天照大神が顕幽両界を掌る天地大主宰で、生死依頼すべきは同神のみ、大国主神に霊魂の救済を願うのは迷信などと、出雲派の教義を否定し始めた。

別派特立に先立つ立教宣言とされる開諭文を読み上げる千家尊福=絵・川崎日香浬
別派特立に先立つ立教宣言とされる開諭文を読み上げる千家尊福=絵・川崎日香浬

 千家尊統『出雲大社』は、尊福はこの紛議を通じ、(神宮寄りの)神道事務局とは宗教に関する基本的な見解が相違し、共に進むことは困難と悟り、早晩独立した布教態勢を整え、独自の立場で教化活動に努める決意をしたと述べる。

 実際明治11年7月の建議書で、尊福は神道事務局が速やかに教典を編さんし、天下に示す必要を説く一方、「異論ある者は別派独立し、互いに教導し易く」すべきだとも述べている。「神道は一つと雖も、諸家の伝説は様々ある以上、各々が伝える説を広め、信ずる所を説く」のが神道興隆の道だと言う尊福には、すでに独立の意志が芽生えていたのだ。

 尊福は12年11月、出雲大社教院の風調館移転、教務局新築にあたり、参集する信徒を前に、我が教会の本旨は「幽冥大神の神意を奉じ……生前死後、顕に幽に心身の幸福を得る」ことにあると、改めて告げた。そして教会の基礎を固め、ますます拡充し、盛大を極めんとの決意を表明している。この開諭文は、神道事務局からの別派特立を視野に入れた尊福の、立教宣言だったのである。

 勅裁による祭神論争の終結に、尊福は最後まで反対だった。神道大会議直前の14年1月28日、太政官で山田顕義参議と面談した際も、教導職が教義に係る祭神について勅裁を請うのは「己の性質を忘れたる」行為で、政府がその請願を受け入れれば「行政権を以て教義を左右する」と反対している。そして「幽冥主宰の神徳を広めんとして、逆に反対論者に神徳を汚されて終わるのは遺憾限りなし」と苦渋を表した。最終的に山田らの説得を受け入れるも、尊福は「自ら進んで請願はできない」と述べ、ほとんどの会議員が連署した(勅裁)奏請書からの除名を求めるのだった。

 この時尊福は「将来、今の事務局に拘らず、一大教会所を設け、幽冥主宰の大神を尊奉する」決意を固めたのである。