ホーム > 千家尊福国造伝 > 記事一覧 > 千家尊福国造伝 第5部・大社教特立へ③ 祭神論争勅裁で終結―議論を避けた薩摩派 山陰中央日報 2018年6月22日掲載

千家尊福国造伝 第5部《大社教特立へ》③ (2018年6月22日掲載)
祭神論争勅裁で終結―議論を避けた薩摩派

岡本雅享

 祭神論争は一説に、明治6(1873)年6月落成の大教院神殿で造化三神と天照大神の四神が祭られた際、尊福が大国主神合祀を求めたのが始まりともいう。当時教部省は、造化三神を「開元造化の主神」と見なす薩摩派が掌握していた。この年田中頼庸は初めて就いた教導職で、本居宣長の曾孫・豊頴と並ぶ権少教正(14級中6級)となった。そして大教正(1級)尊福が祭主、豊頴が副祭主を務める神殿上棟祭で誓主を担っている。

 
尊福揮毫「六神号の軸」。明治9年の出雲教会神徳大意は造化三神(天御中主(あめのみなかぬし)神・高御産巣日(たかみむすび)神・神産巣日(かみむすび)神)と天照大神、大国主神と産土神を同教会で祭る神と定めていた(出雲大社提供)。

 同年11月、神宮大宮司本荘宗秀が死去すると、薩摩出身の教部大丞(4等)三島通庸が頼庸を後任にと後押しした。神宮改革を主導した少宮司・浦田長民は太政大臣三条実美に上書し、頼庸は到底大宮司に就き得る人物ではないと猛反対したが敵わず、10年末の禰宜降格で神宮を去る。7年1月大宮司に就いた頼庸は、教導職でも4級の権中教正をへて9年、大教正に上り詰めた。同年1月に神道を三部に分け、尊福を第一部管長に任じた教部省は、10月に第四部管長を新設して頼庸を当てる。新政府における薩摩派の力が、頼庸をごく短期間で尊福と並ぶ地位に押し上げたのだ。

 祭神論争における伊勢派とは、その実薩摩派だった。出雲国造や大社の社家と縁があった平田派や津和野派と異なり、近世に出雲御師も及んでいなかった鹿児島藩士らには国造への尊敬もなく、平田神学における大国主神の位置づけにも注目していなかったとみられる。8年末の神道会議で尊福の建議を拒んだ時、頼庸は神道事務局で「造化主の名により新規の一宗教」を成そうとしていたともいう。

 13年9月25日、内務省社寺局長・桜井能監(よしかた)の調停で、伊勢派と出雲派の代表は①大国主命を含む四神を表名なしに神殿内へ合祀、②同年11月に大会議を開き、現職員を改定するなどの協議内約を合意・調印した。神道事務局は同月28日、尊福・豊頴らも30日、全国分局等へ協議・和解の成立を通知する。

 ところが頼庸は、この通知を11月4日に突然取り消し、事務局詰の本居豊頴ら出雲派を罷免して折田年秀、宍野半らに置き換え、事務局を完全に伊勢派で占めた。神道界は再び紛糾し、事務局や内務省に意見を上申する者13万3087人に及んだという。

 ここに至り政府中枢が紛争収拾に乗り出した。右大臣岩倉具視が参議の山田顕義、大隈重信、副島種臣を神道取調委員に任命。内務卿松方正義は閣議への提案、天皇の裁可をへて12月28日頼庸に対し、神道教導職の会議を開き事務局祭神や組織を審議するよう命じ、議長に元老院議官の岩下方平を据えた。この会議で大国主神表名合祀を決しようと論陣を整える出雲派に対し、頼庸や年秀は同郷の松方、岩下に勅裁による決定を働きかける。その結果、全国各地の主たる教導職118人を集めて2月3日に始まった神道大会議で、祭神問題は審議されなかった。同月23日に太政大臣三条実美は、神道事務局の神殿は宮中三殿で祭る天神地祇・賢所(かしこどころ)(天照太神の御霊代)・歴代皇霊の遥拝殿とする旨の勅裁を発し、論争に終止符をうつ。

 こうして尊福らが求めた大国主神合祀は果されず、薩摩派が奉じる造化三神の表名も消えた。天照大神が中心になったため、祭神論争は出雲派が敗れたといわれる。