ホーム > 千家尊福国造伝 > 記事一覧 > 千家尊福国造伝 第3部・卓越した指導者⑤風調館で立教宣言―東京出張所も開設 山陰中央日報 2018年4月27日掲載

千家尊福国造伝 第3部《卓越した指導者》⑤ (2018年4月27日掲載)
風調館で立教宣言―東京出張所も開設

岡本雅享

 

明治6年9月24日に敬神講を改組して出雲大社教会を立ち上げた尊福は、明治7年7月15日、同教会の規約と誓約、条例を定めた。同6年8月の教会仮条例を神徳(規約)、道徳(誓約)、会員規則(条例)に分けたものだが、条例第6条として、会中の者は教会所蔵の書籍や新聞、日誌類を閲覧できる旨など加えている。同時に講社を教会の下部組織に位置づけ「教会講社は各区郡村の最寄に従い、何番何講を以て区分」するという講社編成概則も定めた。

 
明治6~12年、出雲大社教会(教院)が置かれていた大社旧庁舎(左)。右は旧拝殿。出雲大社提供

こうして尊福は明治5年以降、目覚しい組織力を発揮するが、その背後には大家たちの力添えもあっただろう。明治6年11月の島根県(出雲大社)仮中教院の開院式では、祭主を務める大教正尊福の傍らに、雨森(あめのもり)精翁(せいおう)(権少教正、1822~82年)と中村守手(もりて)(権大講義)という二人の師が誓主、祓主として居た。

 幕末、松江藩主の学問師範役を務め、維新では藩を代表し朝廷との交渉にもあたった精翁は、富永芳久の学友で大社の門人も多かった。尊福は精翁に杵築への移住を勧めるほど信頼し、明治5年早春、東京から県に大宮司の任状が届いた際も「誠に以て難き仕合はせ(成行き)」と精翁に告げている。明治6年、大教院から第四大学区(中国地方一帯と愛媛県)の教導を任された際は、精翁が同区内における中小教院の設立を計画した。

 明治8年3月、島根県中教院が松江で正式に開院すると、尊福は仮中教院下に置いていた出雲大社教会を、組織的に切り離して出雲大社教会所とした。仮中教院が役目を終える中、その生徒たち(当時55人)が引続き杵築で学べるよう、尊福は庁舎(ちょうのや)(社務所)内の教会所に生徒局を置く。

 尊福は開所当日(4月8日)の情景を「県下諸郡より教会・講長、講社の者を率いて出雲大社何番教会記号の幟旗を飄(ひるがえし)て陸続参詣し、旗竿(はたざお)庭上に林立して旌旗(せいき)(色鮮やかな旗)空を覆ふ」と躍動的に伝える。「講社参拝の男女二千余人、その他愛媛、名東(みょうどう)(徳島)、広島、岡山、山口……鳥取等各県の信者、参聴する者亦多し」という盛況だった(教部省宛「教会所開設并(ならびに)景況届」)。大社少宮司の勝部静男は当時「大社教会結社の数、すでに九十余番に至り」と教部省に報告している。

 尊福は明治9年5月17日、教会規約の改定にあたり教会神徳大意を表し、同月23日に教会本部の名を出雲大社教院と定め届け出た。同11年1月11日には教会の東京出張所を神田神社内に設け、教勢の進展を図る。それに伴い、大社庁舎内では教院が手狭になったので明治12年11月15日、千家邸内の大広間・風調館(現神楽殿の前身)へ移転した。

 その際、尊福は信徒へ向け「千家尊福あえて昭(あきら)かに群集する教会信徒に告げて曰く」で始まる開諭文を発する。教会結成に着手して約7年「信徒の多く信力の厚き遠きは殆ど東北の各県を極め、近くは山陽、山陰、南海の諸国に満ち」る教勢に至った。そこで「今我が信徒の扶助により、祖先伝来の教旨を宣布し以て神道を興起せん」との決意を示し、「我友更に敬神の志を固くし、教旨を実践し……益々余を助け将来の隆盛を期すべし」と鼓舞した。

 時に尊福は34歳の壮年。その言霊は信徒たちの心を振るわせたことだろう。この開諭文は、今も出雲大社教の立教宣言と見なされている。