ホーム > 千家尊福国造伝 > 記事一覧 > 千家尊福国造伝 第4部・祭神論争③神宮改革で世襲神職廃止―官吏が宮司になる道開く 山陰中央日報 2018年5月25日掲載

千家尊福国造伝 第4部《祭神論争》③ (2018年5月25日掲載)
神宮改革で世襲神職廃止―官吏が宮司になる道開く

岡本雅享

 

 明治2年春、父尊澄と京都に赴いた23歳の尊福は、都に父を残し伊勢へ旅した。外宮に詣で祝詞の奏上を聞きながら「もとより我を神や知るらん」と感じた尊福は、内宮で天照大神に「神の子孫詣で来にけり」と告げる歌を残している。この頃はまだ、藤波家が祭主を務める近世の神宮が続いていた。「神の子孫」として伊勢の神々と向き合った尊福だが、2年後に神宮を覆う大変革は予期できなかったろう。

伊勢神宮 風日祈宮への道
伊勢神宮 風日祈宮への道

 天照大神を祭る内宮と豊受大神を祭る外宮からなる神宮は、朝廷勢力の衰退に伴い中世以降、信仰の主体が領主や民衆に代わった。14世紀に外宮の神職、度会氏が大成した伊勢神道は二宮一光(内宮と外宮は対等で一体)と説き、外宮の地位を高める。民衆の農業信仰では水・食物を掌る豊受大神が優先された。内宮の倍の御師を擁する外宮が広範な伊勢参りも主導し、経済面でも優位のまま幕末に至る。その神宮を、皇祖神を祭る至高の存在に復古させる変革の胎動が、明治維新と共に始まった。

 新政府は慶応4年7月、伊勢の山田奉行所を廃止し、度会府を置く。戊辰戦争で卒兵した攘夷派の公卿、橋本実梁(さねやな)初代知事率いる同府は早速、神宮数百年来の弊習を「追々大御改革」すると市中へ布達。同府御用掛となった内宮の権禰宜・浦田長民(ながたみ)(1840~93年)が同夏、数条の神宮改革案を具申した。①外宮を内宮の境内社に格下げする、②祭政一致により今後神祇祭祀は政府が行うべきで、祭主・宮司の藤波・河辺家の世襲を廃し、府の知事・判事が兼務する、③全国配札や参宮人の賽銭に依存する師職制度は廃止する、などだ。これが祭神論争の淵源ともなる。浦田はその後、神祇掛をへて翌明治2年4月権判事に昇進、度会府行政の中枢に参与する。

 浦田の提案は明治4年に入り、具現化していった。まず同年1月、神祇官の要求を受けた太政官が藤波氏の世襲祭主を廃し、神祇大副(たいふ)の近衛忠房(元公卿)を祭主に任命。同年7月には神祇大祐(たいじょう)の北小路随光(きたのこうじよりみつ)を大宮司にし、禰宜以下の神職も入れ替え、御師は廃止した。これにより神祇官僚が神宮の上級神職となる道が開かれる。

太政官は4年5月、この神宮改革に伴い、全国各神社の世襲神職制の廃止を布達した。能登国一宮・気多大社では60代続いた櫻井宮司家が能登を追われ、信濃では諏訪大神の依り代、大祝(おおほうり)も廃絶となる。一方で神職の修養も積まず、信仰心もない官吏らが宮司に補任された。その波は大社にも及ぶ。

明治2年1月、火継ぎ神事を終え第79代国造となった尊澄は「鶴山の松や知るらん今年こそ我身の千代の始めなりけれ」と詠んだ。38年在職した父尊孫から国造を受け継ぎ、さぁこれから、という思いが伝わる。だが太政官が5年1月、尊福を大社の大宮司に「補任」したため、尊澄は僅か3年で国造職を辞した。政府はさらに6年3月、いったん大社少宮司に任じた北島脩孝(ながのり)に、岡山吉備津神社への転勤を告げる。脩孝は国造家の伝統を無視した任命を断固拒否したという(出雲教『北島国造沿革要録』)。

一方、浦田は4~5年にかけて神祇官(省)、教部省の官吏となった後、5年7月、神宮少宮司となる。この道を通り、わずか数年で鹿児島藩の下級武士から神祇省出仕をへて神宮大宮司になった人物―それが祭神論争で尊福に対峙する伊勢派の領袖、田中頼庸(よりつね)だ。