ホーム > 千家尊福国造伝 > 記事一覧 > 千家尊福国造伝 第6部・越へ筑紫へ⑤大社教を支えた多彩な人材―重層的布教で信徒拡大 山陰中央日報 2018年7月31日掲載

千家尊福国造伝 第6部《越へ筑紫へ》⑤ (2018年7月31日掲載)
大社教を支えた多彩な人材―重層的布教で信徒拡大

岡本雅享

 尊福の福岡巡教は明治18年7月下旬から12月初めまで続いた。9月には今の福岡市域を博多湾に沿って西へ移動し、糸島半島(今の糸島市域)に至る。糸島は古代に出雲の玉作り工人達が住んでいたとされる潤地頭給(うるうじとうきゅう)遺跡があるなど、出雲との縁が深い地だ。糸島市二丈の白山神社には「大社御杖代(みつえしろ)兼国造出雲宿禰尊之(たかゆき)」と刻まれた扁額が掛かる。尊福の曽祖父、第77代国造(1795~1832年在職)の揮毫だ。筑前が檀所の大社御師、広瀬家がとりもった縁だろう。

 
明治16年に尊福が大社教信徒用に作成発行した祈祷文の末尾=福岡県糸島市志摩久家の生松天神社所蔵

 尊福はその糸島で宮崎元胤(もとたね)(大俊、1832~1900年)と会う。宮崎家は代々筑前国志摩郡の神職で、父大門(1805~1861年)は同国初の平田篤胤門人だった。大門は篤胤の幽冥観を受け継ぎ、天保10年『幽顕問答鈔』を著す。元胤は安政2(1855)年、父の紹介で篤胤の後継者、銕胤(かねたね)(1799~1880年)に入門。その信任厚く、元胤の名を授けられ、維新に際し怡土(いと)・志摩両郡(糸島市と福岡市西区)の祠官班頭職に任じられるなど、当地平田国(神)学の中心人物となる。

 安政2年、筑前国から元胤を含む15人が銕胤に入門したが、うち10人が志摩郡で12人が神官だった。糸島に平田神学が浸透した所以だ。二丈白山神社の河上定徳(さだやす)宮司は14年出雲刊行の和綴本『葬祭式』(同社所蔵)を見せながら、糸島の神葬祭は、今もほぼ大社教由来のものだという。

 尊福は元胤との別れ際「なみならぬ人の誠の玉(霊)も得つ心尽くしの島巡りして」と詠んだ。並と波をかけ合せた歌に、尊福が得た元胤の厚情のほどが伺える。糸島市志摩久家(くが)の生松天神社宮崎家文書に、尊福が16年末、大社教信徒用に作った祈祷文(家内安全・病気平癒の祈念詞と神語)がある。信徒に配るよう、尊福が元胤に託したのだろう。

 尊福一行は糸島半島から博多へ戻り、今度は御笠川沿いに南進して今の春日・太宰府市域で開教した。さらに筑後川北岸の朝倉市域などを巡り、11月には旧豊前国エリアの福岡県中・東部(今の田川・行橋市域など)で布教、12月4日の鞍手郡で福岡巡教を終えた。

 19年5月の『大社教雑誌』創刊号は、この福岡巡教で管長尊福の親教が125席に及び、5万人余が大社教に入り、1500余戸が神葬祭に改めたと記す。以降の号に出てくる巡教報道を見ると、尊福に続き同年秋には副管長・大教正の金子有卿が、豊前から肥後(熊本県)にかけて巡教した。尊福巡教の随行で熱心だった地元・田川郡の権中講義(10級)箕田軌に先発を委ね、大講義(7級)など教導職数名が有卿に随行している。

 21年には大社教美作分院長で権中教正(4級)の美甘政和(みかもまさとも)が、4月初旬から7ヶ月近くかけて福岡県内を巡教し、豊後(大分県)の日田や耶馬渓筋の各村まで足を伸ばした。政和の開講は延べ150余日・300回に及び、毎回数百人が参集したという。この政和巡教に随行・尽力した教導職の中に「志摩郡権大講義宮崎元胤」の名がある。元胤は祝詞原案や出雲大社月次兼題応募用の短歌を書き留めた「家父吟詠備忘録」(21~22年)で、同年11月に金子副管長から褒賞文を賜り、翌22年に大講義(7級)に昇級した旨記している。

 22年3月には岡山分院長で権少教正(6級)の松尾郡平が信徒の招きを受け福岡巡教へ赴いている。こうした重層的なフォローアップと、それを可能にした秀逸で多彩な人材群が、大社教の信徒を飛躍的に増大させたのだろう。