ホーム > 千家尊福国造伝 > 記事一覧 > 千家尊福国造伝 第1部・生き神様①ダライラマに比肩する宗教的権威 山陰中央日報 2018年2月15日掲載

千家尊福国造伝 第1部《生き神様》①(2018年2月15日掲載)
ダライラマに比肩する宗教的権威

岡本雅享

民俗学者の柳田国男は『故郷七十年』で、13歳まで過ごした播磨の辻川(兵庫県神東郡田原村=現神崎郡福崎町)時代の思い出として、こう綴る。

少年柳田国男の目に映った、播磨の街道を行く千家尊福国造(中央)と従者たち(イメージ) 絵・川崎日香浬
少年柳田国男の目に映った、播磨の街道を行く千家尊福国造(中央)と従者たち(イメージ) 絵・川崎日香浬

「出雲から但馬路を経てこの村を通過した国造家を迎えたことがあった。生き神様のお通りだというので、村民一同よそ行きの衣装を着て道傍に並んだ。若い国造様が5、6名のお伴を従えて、烏帽子に青い直垂姿で馬で過ぎていった時、子ども心に、その人の着物にふれでもすれば霊験が伝わってくるかのような敬虔な気になったようである。その国造様の姿が今もくっきりと瞼に浮かんでくる」。柳田は明治8(1875)年生まれだから、同19年春に第80代出雲国造千家尊福が岡山・兵庫を3ヶ月かけて巡教した時のこととみられる。

 いっぽう明治9年10月18日付『東京曙新聞』は、愛媛で民衆が尊福国造を熱烈に迎えた様子を伝えている。「伊予国松山なる大社教会所開業式執行の為、千家尊福大教正が出雲国より立越されし途中、同県下野間郡浜村に一泊せられし時、近郷近在の農民等が国造様の御来臨と聞伝えて、旅宿に群集せし老幼男女数百人にて、大教正の神拝されるため一寸座られる新薦(こも)を、群集の者ども打寄って掴み合って持行くもあれば、又這入られし風呂の湯は、銘々徳利に入れて一滴も残さぬ程なり」と。

 いずれも、生前から神として崇められた貴人が接した物には聖なる力が宿るという生き神信仰に基づくものだ。それが出雲国造に対し、中国・四国の幅広い地域で存在していたことが伺える。弘化2(1845)年8月生まれの尊福は明治5(1872)年11月に第80代出雲国造となるが、同15年3月、国造職を弟の尊紀(たかのり)に譲り、大社教を創始し初代管長となった。そのため尊福が国造だったのは正確には10年足らずだが、生涯にわたる列島各地の巡教の中で、生き神・出雲国造として迎えられ続けた。

 出雲大社教の今西憲大教正(1900~91年)は、千家尊有(たかもち)第三代管長にお供し岡山県美甘村を訪れた時「里人が径の両側に土下座し、人力車でお通りになる管長閣下に賽銭をなげ、拍手を打って拝んでいる姿に接した」としつつ「大殿(尊福)の御巡教の時にも、このような情景が数限りなくあったと先輩から聞き及んでいる」(『幽顕』771号)と回顧している。

 明治23(1890)年、第81代国造尊紀(たかのり)に謁見したラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は「杵築―日本最古の神社」で「ひと昔前まで、国造の宗教的権威は、この神々の国一円に広がっていた。……遠方の田舎にいる素朴な信者からすれば、今でも神様、もしくはそれに準じる存在であり、神代の時代から受け継がれてきた国造という呼び方が変わりなく使われている」と記す。そして「日本以外であれば、チベットのダライラマを除いて、これほど崇拝され、民衆の信望を一身に集めてきた人は、ほかに見当たらない」と評した。

 その宗教的権威は、単に家柄によるものではない。石原廣吉大社教大輔教(1890~1969年)は「尊福様が東京へ出られるまで、国造様は毎朝お火所で潔斎をして常に神火によって食事をなさる。また一生土を踏むことを許されない。……こういった一般人とは異なる厳重な御生活の神性さから、生神様として拝まれたのだ」(『幽顕』521号)と語っている。