ホーム > 連載・寄稿 > 千家尊福国造伝 > 記事一覧 > 千家尊福国造伝 第1部・生き神様④ 出雲大神の依代 山陰中央日報 2018年2月21日掲掲載

千家尊福国造伝 第1部《生き神様》④(2018年2月21日掲載)
出雲大神の依代

岡本雅享

 宮田登著『生き神信仰』は、天皇霊を付着させた天皇が天つ神の言葉を伝える時、天皇は神と一体になるという。神祭りの天皇は神の来臨を請う祭主だが、一般民衆には神を祭る祭主が神そのものに見えると。いっぽう千家尊統著『出雲大社』も「大国主神に奉祀する出雲国造は、祭儀の上では大国主神それ自身として振舞う」「出雲国造は、古伝新嘗祭では大国主神となり、大国主神が祭っていた神々の祭りをとり行う」と記す。神祭りで神と交わる祭主が「神の依代」となり、民衆から生き神として崇められる所以だ。

千家尊統『出雲大社』(学生社)。裏表紙の写真は真菰神事。
千家尊統『出雲大社』(学生社)。裏表紙の写真は真菰神事。

 安永5(1776年)頃の津村淙庵『譚海』は、「出雲の国造は其(その)国人尊敬する事神霊の如し。氷(ひ)の川上と云ふに別社ありて、神事に国造の館より出向ふ時、其際の道筋へ悉く藁を地に敷みちて、土民左右の地にふし、手に此(この)藁を握りて俯しをる。国造藁を踏んで行過る足を引ざる内に、みなみな藁をひき取り家に持帰り、神符の如く収め置なり」と記している。

 千家尊福国造の時代にも、同じ光景が続いていた。那賀郡今福村(現浜田市)出身の故櫻井勝之進・元皇學館大学理事長(2005年没)が、明治42(1909)年に生まれる前の話というから、明治後半頃だろうか。父が奉仕する久佐八幡宮の御年祭に尊福国造を迎えた時、駕に乗って神社へ着いた国造が、拝殿に布かれた真新しい薦の上を通ると、拝殿を埋めた参詣人が争って薦の藁を抜き取り、跡形もなくなったという。式年祭の賑わいも、専ら国造様が拝めるためだったと、両親からくり返し聞いた櫻井氏は、出雲大神の御神威をその身一つに負い奉る国造がただ人のはずはなく、明治の頃でも石見の郷里の人々は尊福国造を生き神様と心得ていたのだと語っている(『顕幽』549号)。

 今も出雲大社の真菰(まこも)神事では、神職が敷いた真菰の上を、御幣を奉持した国造が歩くと、参列者たちが一斉に真菰を競ってもらい受ける。それを風呂に入れれば無病息災、田畑に埋めれば五穀豊穣のお蔭があると、言い伝えられてきた。

 明治38年に出雲大社の小使を務め始めた故石原廣吉氏は、尊福国造を回顧する中で「殿様、姫君様、お姫様、御殿さんなどという言葉は今も使われていますが、国造家は十万石位の大名の格式があった」と語っている(『幽顕』521号)。ラフカディオ・ハーンも、国造の実権は、出雲の大名にも劣らぬものがあり、将軍も友好関係を築いた方が得策と考えるほど大きかったという(「杵築―日本最古の神社」)。古代に政治上の権力を奪われた出雲国造のそれは、宗教的権威に他ならない。

 明治15年に出雲大社美作分院を開く美甘(みかも)政和(1835~1918年)は、明治7年8月、尊福国造が上京の途中で美作(岡山県)に立寄り、国中の神職を召して旅館で講演した時の情景を、こう伝えている。「千家国造は上段の間深く着席せられ、遥か下りて其入口に旧藩御年寄役にて、宮司となられし黒田氏着席せられ、列席神職一同は次の間に並び、此室より上段の間の境に見台あり」。そして「出雲の国造様と云えば、人にして神なりの時代で、その尊厳とても今代人の想像も及ばぬものであった」という(『旭香美甘政和翁』1925年)。近世における出雲国造の権威の余韻がうかがえる逸話だ。